藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“駄文 32”

(ふと思ったけど、一昨日エントリの最後に『千の風になって』をアフェリエイトリンク貼ったら、あのエントリはギャグになったんだろうかw)


最近の私の涙腺はヒドい。(苦笑)
なんでこう涙もろくなったのかと…。歳の所為か!? まだ17(自称)なのに。
レヴァリアース読み返しても泣くわ。まじめな時間読んだときもだし。(いや健全だとは思いますが。)小さな優しさとかが推察できたり見て取れたりするだけでウルッとくるんですが。どうしたことか!?(知らん。)

なに私? 疲れてるの?

そんな涙腺ゆるいクセに昨日のような自分に対しての冷めたエントリ。
自己評価や自己愛が低いんでしょうかね。

あぁそうだ、先日 流通ジャーナリストの金子哲雄さんが亡くなられた報道を見てね、
(正直、Yahoo!の見出しで見たときには気付かなくて、テレビとかで顔が映って、「あぁ、この人だったのか」と気付いた。『がっちりアカデミー』だっけ?とかでよく見てましたよ。)
その中でネットでこんな記事に辿り着いたんですよ。

[外部リンク] : 『流通ジャーナリスト 金子哲雄さん』(ゆうちょ LETTER for LINKS)

『自分を生きれば生きるほど、いちばん大事なひとが幸せになる。』

『自分の人生を生きなさい』


…これって、私 考えてきたのかなぁ って思ってね。
自己犠牲の精神でね、それでも喜ばそうと生きることがほんとうにみんなの幸せになるのか。
自己満足なんじゃないか? それゆえに・結果的に悲しませることにならないか? とも思うワケで。

無理して笑顔で生きることが…悲しませまいとしているコトが、結果的に悲しませていることになりやしないかと。そんなコトも思った。

無理して頑張ったことをアピって、「どう 嬉しい?」って“痛い”んじゃないかとかね。
…まぁ、こういう先々の感情まで回り込んで読もうとしてしまうことがどこか窮屈感がありますが。(苦笑)


『自分のやりたいことを 一生懸命やろう』(上記リンク先より)


…とはいえ、それを喪失してしまってる(過去エントリ参照)と嗚呼、袋小路。
昨日のエントリでヘヴィなこと書いたのもね、結局何ができるかが焦点なんですよ。
生きてることの価値が 生産価値が基準になっちゃってるんですよ。

何が出来るのか。
何を生み出したのか。
何を残せたのか。


とか思ったり。
あ、いま一瞬ポジティブなコト浮かんだからそれ書いてみるけど、記憶もそうか。
なにか特別なコトをしたとかじゃなくて、たとえばそこに私が介在しなかったら辿り着かなかった知識とか もしかしたらあったのかもしれないね。(一昨日のエントリェ…)

そうか、ACIDMANのDVDのドキュメントパートにあったような、人の繋がりで広がっていった とかもそうか。勿論、一人ひとりが何か生産的な貢献もされたのでしょうけど、出来ないコトがあるから人を紹介するっていうのもアリか。
もしくは人を紹介するキッカケをつくるか。
(そういえば今は別の仕事に就いていないけど、ウチの職場にいた子がそういうコトやってくれたな…)

(書きながらこういうコト今 気付いたな…(苦笑))


うーん?でも自分の人生を生きるとは違う…っていうか、ほかの人が繋げてくれるのは、現在の私の状況・状態から良いコトを紹介してくれることにすぎないから。んだから結局取捨選択をするのは私自身だからのぅ。。。


でね、そうやってどうしたものかと暗礁に乗り上げてしまっててね。なかなか何も出来ないんです。常に評価を気にしてしまったり、どう思われるんだろうかと気にしてしまったり。
誰かが喜んでくれるのは良いコトなんだけど、ずっとそうやって他人の敷いた価値の上を歩き続けてる気がするのも居心地が悪い。けどほかのアイデアもなかなか思いつかない。何も無い。
……そうしているうちに、やりたいことが・意欲が、生きる意欲までも失われて死にたいとか言うワケですよ。

…最近はホントもぉこんな感じ。何もしていないね。
休日とかヒドいヒドい。常にボンヤリと過ごしてたら一日終わってしまう。じゃあ、仕事してたらいいのかというと、それもイヤ。
実に無為。

(なんか以前も書いたかなぁ。。。そんな流れになってきたな。。。)

単調な同じ毎日を繰り返し暮らすのはそれはそれでいいんですよ。安心材料になるし。
けど、「これじゃダメだ!」と思ってる私もいるからダメだこりゃ。

だってそれに私のプライベート領域じゃあ、私の話を聞いてくれないもの。私の思いに応えてくれないもの。私の願いを叶えてくれないもの。
だったら能動的になるしかないんだけど、その中に見知ってる友人・知人は居ない。要らない。
彼ら・彼女らの前では私は受動的な立場が既に出来上がってるから最早適わない。敵わない。
今まで聞いてくれなかった人に、『私の思いを聞いて!』というのは“相手を変える”コトになるから不成立。自分が他人を変えるコトは出来ないのだから私がなんとかするしかナイのだもの。

そうしてどこか現状の、今の人間関係がどこか退屈に(?)不満に(?)感じてしまってるのもどこかあるのか、「じゃあ別に解決しないならその人間関係を全て遮断する手段もアリだな」の流れでの「死にたい」な。とかね。…勿論、今までも今も、友人・知人には助けられてはいるクセにね。

…私をなんとかするしかナイのだけど、
そしてどうしても私は私の“欠落”が気になってしまう。

私は そのときそのときの私の幸せのために常に選択してきたのだろうか? と。