藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“思い出の焼却”

なんか相変わらず年末感が無いんですけどね。
毎日働いてるからなのかもしれませんが。こういうのが日本の情緒を失わせていくんですよ。
…別にどーだっていーんですけど。w

さてFC2ブログに移りまして、尚且つ今年はよくこのブログ内で私の内面について書く機会が多かったような気がします。それはココログ時代から比べてヒット数が減ったから、「どーせ誰も読んでないだろうw」的スタンスで好き放題書いてるのが一つの動機ではあるんですけど。

過去は要らないんですよ。もう。

過去エントリで常識の衝突だとかも書きましたけど、その常識が浸透するのもこれまで周りの価値観が勝手にインストールされてきてるが故ですので。
結果それによって現在の言動が制限のかかった…鎖で絡められたものになってしまって、非常に視野の狭い見方しか出来なくなってしまうもので。
それはネガティブだからとかに限らず、他を押しのけてでも自分の価値観を通そうとするような人…体育会系的な熱量で押し切るような人にも同じコトが言えるんですけどね。
だから何故そのような思考体型に必ず行き着くのか っていうコト。それが許せないっつーかね。そうなってしまう考え方が要らないので、とりあえずどんどん過去の負債を出していこうと。

仮に良い出来事が過去にあったとしても、過去の栄光にすがりついて現在なにも出来ないようでは意味が無いですからね。

ポジティブな思い出もネガティブな思い出もそれに縛られ続けたらただの執着。

で、
だ。
かといって過去のコト全部外に出していけばそれで済むのか。思ってる心のわだかまりを外に出していけばそれが報われるのか っていったら全然そうでも無いんですけどね。(苦笑)
外に出したらスッキリするだけかもしれませんが解決はしませんから。
これも前書いたと思うんですよ。吐瀉物のようなものでね。
吐き出したほうはスッキリするけど、周りの人は気持ち悪がるから。

でも吐瀉物がノドに詰まって窒息するよりかは(暗喩察して)、吐けるうちに吐いたほうがよっぽどだと思いますよ。
アスファルトに吐いた吐瀉物はなかなか拭えないですけど、雨と太陽に曝されていずれ見えなくなりますから。

そうそう、私いじめがキッカケで、ストレスに負荷がかかると拒食症に今でもなるんですけど、拒食症っていうコト事態が“拒絶”っていう現象ですからね。“うまく飲み込めない”という。
そのひっかかりの元を絶ちたいんですよね。

何がストレスになっているのか、何を無理してるのか っていうことを。
どの人間にもあてはめることが可能な部分と そうでない部分があるんだから。その“普通”の過程の中で何が自分に無理をさせているのかを明らかにしていかないと、これからもきっと生きてるだけで溺れっぱなしだと思いますから。
ストレス自体も、それが本当に合わないコトなのか、合わない価値観になってしまったからなのか。ある事象に対して一過性の解釈にしかならなくなってしまったからなのか。
それも分かりませんからね。

生きる理由なんて全く無いんですよ。生きる意味とか皆無ですから。
けど、死ぬ理由はたくさんあるんですよ。仮に理由を提示しなくても、おそらく自死したら勝手に理由は察してくれるくらいたくさん容易に用意できますよ。

これまでブログに上げてきた、私のめんどくせー過去はきっと自死するためのさまざまな理由になったんじゃないですかね。
でもその理由ももう要らない。理由自体が方便。

こじつけた理由も意味も、過去の思い出も、それが負担になってしまってると私が感じてるんだから捨ておこう。と。
とりあえず外に出して、その要らない思い出を捨てるために、思い出というゴミをゴミ出しをするために、先ずはゴミ集めてみた。今んとこそんなとこ。