無駄に正直なことを話すと、10年くらい前までは「多くの人が報道を疑うようになること」について、社会にとってはプラスのほうがはるかに大きいと思ってました(そのプラス効果はいずれ報道を生業とする組織にも及ぶだろうと思っていた)。けれどいまはマイナス効果のほうが大きいと感じています。
— たられば (@tarareba722) 2021年1月21日
理由はいろいろあるのですが、一番大きいのは「人間の、何かを信じる力の威力を見誤っていた」というところだと考えています。「報道」を疑った結果、別のなにか、もっと手軽で、もっと怪しいなにかを信じるようになり(たとえば「自分」とか)、それが回りまわって報道の力をいっそう弱めてしまった。
— たられば (@tarareba722) 2021年1月21日
この、いったん神棚から降ろしてしまった潮流は、もう戻そうと思っても戻れないでしょう。すでに取り返しのつかない領域に踏み込んでいることを自覚しつつ、分断の割れ目の大きさと深さを踏まえつつ、それでも「よりマシな情報流通の仕組み」を考えていくしかないよなあ…と考えています。
— たられば (@tarareba722) 2021年1月21日
この、未知のウィルスの報道の諸々で、
「正しく恐れる」ことを推奨する文言をよく拝見いたしましたが、
どうでもいいんてすけど「正しく恐がる」ゆーて、人によって『正しさ』が違うので (以下略
— 藤麻無有彌 (@tohma6u3) 2021年1月21日
もうねぇ、わかんないんですよ。
私も色々ございまして、人との対話で話が通じないことが何度もありまして、
いったい何が求めてる会話の答えなのか とか、何に『反応』してそうまで激昂していらっしゃるのか とか、
固定観念や自己の根底にどういう認識があってそういう解釈のもとの言動としているのか っていうのがさっぱり分からない。
文節の区切るところで『正しさ』はどこにあるものかと捉えてる人の違いもありますし。
「自分の主観的な感覚が大事」なのは分かりましたが、それと異なるものを断罪する方も多く見受けられまして、厄介極まりないです。
じゃあ私も断罪しますよ? という話ですよね?
寛容を求めて不寛容で責め立ててね。
価値観をフラットにすると言いながら鋳型に嵌めてぶん殴りたい人もいるし、寛容を向けてほしいのに他人には不寛容だったりするし、
— 藤麻無有彌 (@tohma6u3) 2021年1月21日
けど他者を慮るばかりではなく主観的に感情の赴くままに在れば良い というのであれば、仰る通りに 他人を許さずに自分ばかり許されたいと願い続けて振る舞えば良い。
皮肉ですよ。
でも結局、信じたいものしか信じないし、
自分の信じるコミュニティを大事にしてさえいれば生き延びられて、
ほかに対しては排他的であったとしてもダメージは少ないですからね。
私はこう思った。
あなたはそれとは違うけど「そうなんだー」として、
それでも異なる両者が共存していくにはどうしようかー
……ってとこなんですけどね。
都合のぶつけ合いじゃあなくてね。