子どもっぽい競争に夢中になれたり、
先を見なくても走っていればいいことがあると、
信じられるような時代だったら、
先に逝く人に向って「ちょっといいな」なんてこと、
思えるはずがないでしょう。
ぼくがこれまで経験してきたなかで、
いまって、いちばん生きるのが難しい時代だと思います。
ここまで「希望」を語りにくい時代だとは、
思いたくなかったのですが、どうやら、そうみたい。
ぼくは、それを、実は無意識に感じていたんだなぁ、と。
そう感じているじぶんと、目が合ってしまったのでした。
「希望」なんてニンジンがぶら下がってなくたって、
人間、あんがい強いからたのしくも生きていられます。
でも、気やすめでない「希望」ってものが、
ほんとは探せばあるよってことを、言ってみたいなぁ。
希望のかけらでも、希望のくずでも、うれしいんでね
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以上は2010.09.09.付けの今日のダーリンのコピペ。
これが更新される前くらいから糸井さんのツイッターでなんだかネガティブな(?)つぶやきがあったので気になってたワケですが。
で、『#kibou_kakera』で 『希望のかけら』について140字で何か書こうと思ったのですが、なんだか収まりきらない思いがあったのでブログの方にでも書こうかしらと。
糸井さんご自身も書かれてますけど、割と楽観的というか、ポジティブに物事を考えられる糸井さんがこのように考えられるってコトは よっぽどなのかしら と思ってしまったりしてね。
『頑張ればなんとかなる』とか、『我慢が足りない』とか。 そんなのではもうどうしようもないのでしょうかね。改めて。
先に逝く人を どこか羨ましいとさえ思うのも自然なもので。勿論、生きていく上での楽しみもあるものですよ。ただ先を考えると不安になるのです。経済的なコトとか。人間的なコトとかね。しがらみとか。
何かおかしい。なんともならない。しかし、なんとかしたい。なんともならない。
生きてく中で、笑えなくなったら終わりよ。まだ笑えるのならまだ希望は持てるものさ。
だけどそれはどこか その場しのぎ的でないかい。
漠然の不安に 笑いの刺激を強く刺して痛みを誤魔化してるような。
個人で異なる不安に、共通項の笑いを用いる。
笑いを批判してるわけではないんだ。
福来るというし。笑顔で在ることは素敵だと思うから。
さて、たいそうな『希望』があると、逆にそれは光を強くして影を大きくするとも思う。
掲げられた『希望』に乗れないと また不安がやってくる。
希望を抱くことがダメってわけではないけれど。
穏やかな日々を紡いでいくことが大切 ってコトじゃダメかしら。
なにより感情に波風立てすぎない っていうかさ。決して冷めてるワケでなく ね。
あぁ、もっと言うと 人の感情に心ごと呑まれない ってコトかなぁ。うん。
“希望のかけら”ってコトを軸に考えてみたけど、別にこれも人それぞれ。
色々あっていいハズですから。
なんか論旨というか主旨がズレてしまった感はありますが(笑)、この朝方の時間の涼しい時にこうしてられること。こうして毎日なにかしら書いていられる環境があるコトが“希望のかけら”ってことで。
とりあえず。