藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“『FILE086:「<私>探し」』を見た。”

爆笑問題のニッポンの教養
2009.10.06.O.A.
FILE086:「<私>探し」
を 見ました。

永井均(ながいひとし)
日本大学文理学部教授。

以下、番組内容。発言の内容が正しくないところもあると思いますが ご了承をば。


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日本大学 文理学部へ。
『子どもの頃から 不思議に思っている 何か哲学的な疑問 ありますか?』
という色紙を頂いたそうで。

先生の研究室へ。色紙の質問について、それこそ『人は何故生きるのか』みたいなことだろうか、と聞くと。

永井:「子どもの頃にある疑問を思ったわけです。それは どういうのかというと、いっぱい同じくらいの背格好の子どもがいるのに、その中で何でこいつが僕なんだろう と。」
他のヤツは僕じゃなくて全然違う 見える世界。動かす手足、殴られたりしたら痛いのは僕。

漠然と思ったのは幼稚園の頃だという先生。

身長171cm、体重63kg、好きな食べ物は カレー。プロフィールをいくら並べても、
私は何故 永井均なのか。
何故 私は永井均なのか。


太田:「他の友だちにちょっと言ってみたりしました?」
永井:「言ったんですけど、誰も分からないんです。意味が。何を言っているか。」
田中:「何で おれはおれで、お前はお前なの みたいな感じで言っても。」
永井:「そう 言っても。」
田中:「わかんないよね。ポカンとしちゃう。」

太田:「じゃあ友だちに理解されない――…ったら余計…」
永井:「そうそう。理解されちゃったらそこで終わっちゃったかも。あぁそうか そういう問題なのか。なんだみんなそう思ったのか。終わり。と。
    誰も分からないと、おれは不思議だと思っているのに、何でみんな分からないんだろう?っていう ここ大事ですよ。みんなが分からなかったものの中にさらに問題があるんじゃないかというふうに思ったわけですね。」
太田:「じゃあ1人で悩むしかないね。」

永井:「誰かのうちの1人が僕だ っていうこと、そういう問題じゃなくて、なんでその 僕とか私ってヤツが、他の人はみんな自分じゃないわけですけど、自分っていうヤツが何で存在しているのかと。
    だって いなくたっていいじゃないですか。人類が生まれて いっぱい 生物としての人類が生まれて 意識もあるけど 自分がいる必要はないのに。だって100年前までいなかったわけですね あるとき生じたわけじゃないですか。何で生じたのか っていうのはやっぱり不思議。」

生物学的、生理学的には脳が進化して とか進化論的に言うけど、脳が意識してとか そういうことばかり と永井氏。

太田:「周りばっかり説明する感じね。」
永井:「人間ができて、人間が心があったり
    〜…若い時、偉そうな人に いっぱい聞きました。けど、問題の意味が分かる人でも 答えがない。」

太田:「『我 思う』ってのはどうなんですか?」
永井:「デカルトですか。」

デカルト:『我 思う、故に 我あり』”

永井:「森羅万象 全部幻で、他の人もいなくて、自分の記憶とか 自分の体も無くても、それでも 自分というものだけは、私ということだけは疑えない。
    あの、彼…デカルトは考えたわけですけど、そのことと、結局 僕が考えている 何で私 変な、例外的な っていうか 特殊なものがあるのか って考えたことは 究極的には同じ問題だったと思います。
    でも デカルトだってその…」
太田:「なぜ っていうことは」
永井:「そこの答えは無いんですね。そこが出発点になって、そこからなんか神の存在証明して色んな外界てか色々やっていくけど、そこに何故 起点が置かれるか っていうことに関しての説明は デカルトだってやっぱりないですね。」

太田:「デカルトは少なくとも、 自分である ってことでしかない っていう、そういうことは言ってんじゃん。」
永井:「言ってました。
    だからデカルトは僕と非常に似た 何かをとらえていた。一瞬ですけどね。デカルトの場合は」
太田:「一瞬?」

永井:「つまりその 私とは何か って時に、同じ思考実験みたいのをしたらば どんな人でも同じ結論に達する っていうふうに彼はすぐそのあと言うので 僕はそれはちょっと違うんじゃないかと。
    他の人には当てはまらない、自分だけ〈私〉だけっていう問題こそが この問題だ と思うので、一瞬だけはつかまえたけど、すぐに違う方向に。」
太田:「デカルト ズレちゃいましたか」(笑)

“『我 思う、故に 我あり』の 我 とは何だ?”

太田:「5歳くらいになると 大抵 僕なんかもそうですけど、死ぬのこわい とかって 漠然と思うわけですよね。で、直感のような気もするけど、そのある状況から、「じゃ おれは何?」っていうとこに行くことはある。」
永井:「ありますよね。死ぬ ってのは一つありますね その 死ぬってのは、他の人が死ぬことは見たり経験したりできるけど、自分が死ぬ っていうのは全く特別なことですね。」

永井:「まぁ言えば 世界がなくなっちゃう そう 終わっちゃうわけですから、それは他の一般的な死からは理解できないことだけども でも 理解するんですよね。で、その問題と、今 言ってる『私が』っていう問題とは ある種似てますよね。
    死 っていう問題 結局『私』の 死 っていうことで 『私』の死は 他の――…当たり前ですけど誰も経験したことがなくて、他の人の死しか経験してないですね。
    他の人の死っていうのは いわば世界の中で起こる出来事ですよね。でも〈私〉の死は 世界そのものが消えちゃう っていうか。いわばその舞台の中の出来事なんじゃなくて、舞台そのものがなくなる。スクリーンの中の出来事じゃなくて、スクリーンがなくなっちゃう。ま、無になっちゃう。」
田中:「死んだことを認識した人って いないわけじゃないですか」
永井:「いないですね。」

田中:「死にかけた は あるかもしれないけど。」
太田:「死後の世界に行った人はいるけどね」
田中:「まぁ 丹波(哲郎)さんとかね」
太田:「あれは完全に認識してますよ。」
田中:「いやいや。(笑) ま、そういう人はたまにいるけど。」


太田:「つい この前、臓器移植法って成立しましたよね。」
永井:「あぁ、はい。」
太田:「ま、法案に 賛成・反対はあるけども、ふと こう考えたことがあって、脳が機能しなくても 他が機能している場合 何か感じているような気がするんです。で、じゃ 心って 頭にあるの 胸にあるの って話になって。
    それで結構わかんなくなっちゃった感じがあって、やっぱりその いずれ我々はそれを解明… 人類はその心の居場所っていうのをおそらく追求していかざるをえないと思うのね。」

“〈私〉の心は どこにある”

太田:「今の時点では 暫定的に 脳死は人の死ってことになるわけですけども、それでもやっぱり ホントか ホントか っていう追究。その哲学的なことになっていきますよね。だんだん。
    で、それって “オズの魔法使い”っていう物語の中で、ドロシーが竜巻に巻き込まれて、オズの国へ行くと かかしとブリキのきこりとライオンと3人連れるわけですけど、かかしはオズに脳みそがないから脳がもらいたい って言うんですよ。ブリキのきこりは僕には心臓がない 心がないから心がほしい って言う。 で、その2人が言い合いするわけです。心なんか 心臓なんかあったって……ハートって書いてある。
    そんなものがあったところで、それを脳がなければ どう使うかわかんねぇじゃねぇか って言うわけです。すると ブリキの方は ロボットの方は、いや 脳なんかあったって 心臓がなければ幸福にはなれないんだ っていうやりとりがあって。
    本当の自分 っていうのは、ここ(頭)にあるか、ここ(胸)にあるか。」

永井:「〜…
    …それはわかんないわけだから、そういう意味では 本当は絶対わかんないですね。どこで死ぬかなんて。」

太田:「そうするとでも、先生の最初の疑問 小学校の時に感じた疑問っていうのは、医学的に、生物学的にはすごくアプローチしてるわけじゃないですか。結局 自分はどこにある っていうのは、脳なのか心臓なのか体なのか それは選択しなきゃならない現状にまで来てるわけですよね。日本はずいぶんそれを先のばしにしてきたけども でも、それを医学的なアプローチが 逆に哲学的な先生の追究のヒントになる可能性があるわけですよね。」
永井:「いや ないですね。」
太田:「ない?」

永井:「つまり医学的研究ってのは どうやってしているのかと。生物学的に言ってね、脳と脳状態と心の状態の 対応付けをするわけですよね。脳科学的に言ったら いかなる死活であるかと。そうやって一番 極端な状態考えると、自分の脳を自分で研究することはできますよね。つまり 自分自身で脳と意識を見た場合、直接わかるわけですね。
    このとき これだと。名前つけなくていいんですよ これは痛いとか何とかじゃなくて、これのとき これ。あれのとき あれ ってやって自分の中で言葉なしで 概念なしでやるわけね。でも これのとき これ って言ったんじゃ何だかわかんない。
    つまりポイントは それぞれの人が実感するっていうことと 科学になるっていうことの間に 大きな飛躍があるわけですよ。 それは何やってるかって言うと、心と体のつながりじゃなくて 言語がやってるんですね。実は。で 大きなのは 実は 脳科学的研究とか あらゆる科学研究は 言語っていう媒介がきわめて大きいですね。」

太田:「言語化したときに ズレるっていうことでしょ。実感から そこが問題だってこと」
永井:「ま、ズレるって言ってもいいけど、ズレるっていうより そこで作られるんですね。新しい概念がね。」

田中:「ちょ ちょっと難しいんであれですけど、例えば この色は何ですか って言われて、「赤」「赤」「赤」って答えますよ。これ“赤”。 でも、実際どう見えてるか 誰もわからない。そういうことですか? ぶっちゃけて、こう 今の わかりやすく言うと。」
永井:「えーと」
田中:「要は もう 赤でいいじゃん。赤って」

永井:「ま、そうです。簡単に言えばそうで。
    あの、言い方を変えると、ま あれですよね。言語的に言うと この色が赤なんですよ。それで それぞれの人がこれをどう見てるかわからないっていう話は 言語的な、普通に話してる時には入ってこないですね。
    で、それぞれの人はどう見ているかわからない っていうふうに言ってもいいんだけど、でも その赤い本取ってくれ 黄色いのじゃなくて って言うと、僕が思ってる赤い本を必ず取ってくれるわけですね。で、どう見えるか関係ない。“彼にとってどう見えるか”ってことが そん中に入ってこないで 赤い本取ってくれるわけですね。
    そういうふうにできている以上 赤 っていう言語を使った我々の生活の中では 彼に、彼女に どう見えているかということが入ってこないんですね。その意味では機能を果たしている心の中身と 物の関係の研究は言語を使っては出来ない。」

太田:「そうすると先生の疑問で言うと、自分は何故 自分じゃなきゃいけないのか っていうのは 僕は逆に おれ 本当に自分で いれてるのかな と。」
永井:「いれる とは?」
太田:「自分という他者の影響を受けない 本当の純粋な自分であるのか。 おれは他人じゃないのか」
永井:「いやいやそこはね 僕はね 心配ないと思います。」
太田:「よかった〜。」

(笑)


永井:「あの ちょっと 思考実験しますけど、例えばですね、自分とまったく同じ人がもう一人いたとしますね。全く同じ人。だから見掛けも同じだし中身も記憶とか。それも同じで で、経験も、経験も同じためには 分裂…ある時期まで一緒にやってたやつが2つに分かれる。すると経験も同じですね。で、今 分かれて、太田さんなら 太田さんが2人いると、」

永井:「2人いるから、2人いても中身 全く同じなんですね 中身も外も。でも それでも 根本的な違いはやっぱりあって、
    (…〜それぞれを 別々に殴るとして、別の反応があって、それぞれの目から見ている世界も違うし、片方は手を挙げても、もう片方は手を挙げなかったり〜…)
    生物として全く同じで 心理学的にも全く同じだったとしても、どちらが〈私〉であるかという違いは 全く それとは別にある。で、〈私〉の存在っていう問題はデカルトも言ったように、〈私〉の存在という問題は 他のものの存在と種類が違うんですね。
    存在ってのは 本当はその〈私〉の存在という そのレベルで考えるべきもんなんですね。 それでさっきの問題に関しては えー 完璧に安心できる。」
太田・田中: (笑)

永井:「安心 っていうのはつまり オリジナルっていうのが全くなくて」
田中:「あり得ない」
永井:「そうそう」

“私のコピーが100人いようとも 〈私〉は たったひとり”

永井:「でもね、逆に言うと、今のは同じ人間であっても 例え同じ人間であっても、〈私〉というのはどちらか一方っていう話だったんですけども 逆に言うと、同じ人間じゃなくてもいいことになりますね。〈私〉っていうのは そしたら。
    だから太田さんである〈私〉は 太田さんでなくてもいいですね。田中さんでもいいっていう。 つまり今から急に(太田さんが田中さんの目から)世界が見えて で、これが(田中氏を指して)痛い っていうのはどうですか?」
太田:「イヤです。」
永井:「(笑) ヤだけど そうなったらこれ(田中氏の体)が私になっちゃう。」

“田中である 〈私〉?”


太田:「なんて言うんですか、例えば右手を上げるだの、何かを見る 殴られる っていうのは、何かと関わった瞬間にオリジナルになるというか。世の中の起きてることを感じた瞬間に こいつがオリジナルになっていくとすると」
《画面上に矢印で田中氏を指し、“←こいつ=私” と表記》
太田:「つまり先生の最初の疑問で言うと、おれだけ何故おれなのか っていうのは 実は先生だけが おれ じゃなくて おれんとき と こいつ(田中氏)も先生も全部おれっていうことに…」
永井:「それ どういう意味で言ってます?」

太田:「この取り巻く世界は やっぱり全部自分でしかない」

永井:「それは仰る通りで、だからね 他のいっぱい人間がいて、こいつとこいつとこいつは同じなのに、なんでこいつがおれなのか っていうと、これはある意味全てなんですね。これは世界なんですね。これが。
    これは世界の中に出てきた 全く同じ―… 性質は同じものなのに、これは世界の中の一事物。これは世界そのものなんですね。これ全部なんです。全て。 森羅万象全部これなんですね。 という意味じゃ、これとこれは全く違うわけですね。」
太田:「そうですね。」

永井:「うん。それは同じものより全く種類が違うものができるってわけですね。で 私の存在の不思議なとこはまさにそれで、〈私〉であることによって、それこそが全てなんですね。
    全てであって、そのあらゆることは 私なんて時間的に短くて数十年から100年くらいしかないんだけど、にもかかわらず、大昔のことも 大未来のことも〈私〉がそう思っている あるいは 宇宙のことも全部〈私〉が思ってるわけで、〈私〉が一度も存在しなかったならば、世界も宇宙もないのと同じですからね。」

“我あり 故に 世界あり”

太田:「それぞれがそういう世界ですよね。」
永井:「そうですね。」
太田:「おそらく」
永井:「おそらく」
田中:「そうなんだよね」

永井:「すると そこがまた問題で、それぞれが っていうステップにどうやって行けるか っていうことですよね。
    つまり自分が そうだ というところから他の人もみんな同じだっていうことに行く ここがまた大きいステップで」
田中:「自分だけかもしんないけどね。本当にね。」
永井:「本当に自分だけ っていう可能性がありますね。」
田中:「ただの登場人物の可能性がある」


太田:「それぞれがそうだとすると もっと考えていくと 結局 先生が最初に思ったその 自分は何故 自分でなきゃいけないのか っていうことではなくて あの 自分は他人でもある ってことになる。」
永井:「いや 他人もまた自分。
    あのー、心ってのはそういう問題ですね。心とは何であるか っていう問題があるじゃないですか。それで あの ま、心って今の話で繋げれば 自分の心と他人の心 ありますね。あれ全然違いますね。 両方とも 心って同じ言葉で言われますね。
    これってなんでだろう って言えば、ある意味では不思議ですよね。こんなにも種類も性質も違うもので、つまり 自分の心はきわめてはっきり心はあるな とわかりますけど 他の人はわかんない。 物はもっとわかんない。物は一応ありそうな感じがしますよね。いくらこれ幻覚かもしれないとか何とか言ったって 多分ありそうじゃないですか。こういう物って。
    他人の心は本当に見えないから もしかしたらロボットかもしれないとか、もしかしたらゾンビかもしれない っていう可能性は本当にあるかもしれないよね。」

太田:「例えば 心っていうのは それこそさっき言ったように何かと関わって初めて いろいろ変化するような気がする。
    そうすると、オリジナル っていう話にこだわると、おれが先生とこうやって会話してると、おれが思うこと ってのはおれが予想できるんだけど、先生が思うこと ってのはおれは予想外なわけですよね。絶対に。
    じゃあ どっちがオリジナルなのかって、おれにとってのオリジナルは先生なんですよ。先生の言うことのほうが予想外だし 今まで考えたことないことが起こるわけだから。そうすると、おれのオリジナルはこっち(先生)だって思っちゃうわけね。
    で、そういうふうにたぶん関係がみんなあって つまり おれはおれだ じゃなくて、だって絶対その関係性から離れることは絶対にできないから。 ま それこそ ひとつ 死 っていうのは可能性はそこだけど、だとすれば生きてる限りみんなの合作なんじゃないかっていう気がするんだけどね。」

“あなたがいるから 私は〈私〉に気づく”

永井:「こういうのはどうですか。例えばね、これがね 夢だとするんですよ。夢だから僕が作ってるわけですね。それは全部自作なのに。自作であるにも関わらず、色んな人が色んなこと言うのは 全部その…夢ん中でも意外なこと言いますよね。」
太田・田中:(笑)

永井:「夢だから全部 自分が作っていて 自分の いわば 心の中なのにも関わらず、二重三重に自分の心以外のものがあって、そのものの中に さらに奥に他者の心っていうものがある…っていう構造を自分で造っちゃう。
    これがあるから そうだとするとですね、現実もそうなっていますよね。すると 現実と夢と どう違うのかと。逆にね。」
太田:「逆に記憶になっちゃうと、もう夢も現実も別にどうでもいいからね。」

永井:「どう違うかっていうと、まぁ ひょっとするとね――…これは一つのアイデアですけどね もしかしたら現実は、他の登場人物もいわば同じ夢を作っている主体で、向こうの夢でもある。
    田中さんや太田さんの夢でもあるっていうことを認めるみたいな ある種 根本的な社会契約みたいなもので そう根底的な社会契約を我々はやっていて、それはみんなで認めましょう っていうことが 現実の世界っていうものをね、構築している っていうか 成立させている っていうかね。」

“世界は62億の〈私〉という奇跡でできている。”

〈私〉がはじまるとき、
哲学がはじまる。


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“死”に関しての話はすごく興味深くて。

確かにそうなんですよね。別に5歳くらいとかでは無いんだけど、他人の死は“外の出来事”として考えるんですけど、自分の“死”を認識する っていうのは、よくわからないですし。

“<心>が” というか、今、こうして何かしら考えてたり、思ってたりする “意識”? みたいなものはどうなるんだろう。 というのはよく考えました。

例えば、死ぬ直前までの意識の中では、病気か何かの症状で『苦しい』という思いばかり続けていたものが、死んだらその意識はどうなるんだろう と。

いったん(?)途切れるのか、それとも『苦しい』という意識からいきなり解放されるんだろうか。

…とか考えたりして。

オズの魔法使いの例も面白かったです。

で、心がどこにあるか、頭か胸か。とか。言ってしまえば、脳なのか心臓なのか とか考えられがちなんですけど、これはあと“お腹”にも 心があるんじゃないかとか。

意見を言い合って、納得する時に『腑に落ちる』って言いますし。これは頭で理解するよりも深いところで“わかった”というふうに言われますし。

“心”というか、“神経”みたいな意味合いで、どのものにも、どの部分にも“心”があるとも言えると思いますし。

今回の話の中では、哲学的ゾンビについてとか、クオリアについてとか、上記のことは“<私>が何か”というよりか、“心の在り処”、心がどこにあるのか、ってことについての内容だった感じですが、

<私>という意識、考え…などはどう成立しているのか、どうして<私>という意識はこうなったのか、などは、結局 相対的に捉えるしかない感じで、まさに、

“あなたがいるから 私は〈私〉に気づく”

としか言えないんでしょうか。

けど、相対的ではない、“絶対的な意識(思考)の<私>”というものの根源はどうなんでしょう。相手の考えに批判的になったり、共感したりする反応の理由は…。

まぁ、ここでスピリチュアル的に言ってしまえば、“魂の記憶”がとか言ってしまえそうなんですが、だとしても、その経験をする前に至る経緯とかは…?

面白かったです。

こういうのホント個人的に好きですね。

永井先生の本も読んでみたいと思いましたよ。