ニッチなところから、多くの場に、多くの目に触れることになると、そのニッチなことが本当かどうかなんて分からないし、
小さな『村』の話がどこまで通用するか分からないし、閉鎖されてると、他方それが外に出たときに新しい常識が 外の世界では当たり前で普通のことだったりしますし。
小さな『家』でのルールに従わざるをえなかったり、公的にはなにかしらの援助のサービスがあったとしても、家の偉いやつが、職場の偉いやつが、その 閉鎖された小さな集団の中で偉ぶってる声のデカいヤツが洗脳したりルールを強いてパワハラしたり。
抜け出せばいいのに っていっても、その小さな環境で育ったことが身に沁みついていると抜け出すことが困難だったり。
物理的環境の弊害もあれば、心理的な弊害もあるし。
どこまで当事者の視点に立てるか なんてのは分からないですよね。
知らない人は知らないし、分からない人は分からない。
分断に意味はないけど、知らずに分断してることもある。
男女がどうとか、年寄りと若者がどうとか、地方だ都会だとか
世間的なマジョリティが支配していたり、ニッチであったとしても閉ざされた場所で大きな影響を与えているものがその世界でのルールになってたりするし。
知らない人は知らない。
「これだから男は~」って言うのと、
「これだから老人は~」って言うのとか、
「都会モンは~」とか
…当然、その逆もあるし。
「これだからおじさんは~」とかも。
(所謂 “おじさん” に対してはサンドバッグにしていい風潮が強くあるので)(主観です)
自分の生きてきた思い込みがあるからねぇ。
その思い込みで他人を殴って、殴られたほうはまた新しいトラウマになり。
また、自分の環境を伝えても嘘だと言われたり大袈裟だと言われたり『盛っている』と言われたり。
受け取り側によりますものね。
知ることから なんですけどね。
関心を持つことから なんですけどね。
でもどうやら自分の小さなシマで威張っていればよくて、小さな縄張り争いしてるだけな感じなんですよねぇ。
だからまぁ、言っても無駄 だってこのブログでついつい繰り返し書いてしまうし。
知ることを諦めた人たちが適当に放言とした罵倒をするのよね。
個人つか、特定の誰かにこれは求めても無駄で。
なんせ「自助」ですし。
先人たちは そういう歴史を紡いでいきたいご様子ですので私はただネットの片隅でこうしてぼやくだけですのよ。