クズだと思うのはそもそも誰かと比べてしまうからなんだけど。
私も誰かしらと比べてよく凹むもので。
同じ空間内に誰かが他にいることで、いちいち優劣を付けてはアレよりマシだの、あいつに負けてるだの一喜一憂して。
ま、根本的な部分での自信が無いからこそ、比較の部分で、他人と比べることでの自信を外付けで付けたり、たまにエグられたりする。
数字的なことでも、他者評価を求め過ぎなこともそれは後付けなのに、そればかり欲してしまうし。
けど媚びる的なことも出来ない…や、たぶん出来てしまうんだろうな。
どこかで他人を感じて押し殺してる自分がいる っていうコトは。
他人の…まぁ、家族でも友人でもなんでもいいけど、その人の個性や出来ることが見えてしまうと、自分にとって他人の中での立ち振る舞いとかを考えてしまうからな。
前書いたやつに似てるとこあるけど、
この人がこうくるから、じゃあ私はこうした方がいいな。とか。
メジャーに対してのマイナーみたいな。(?)
他人を満たすこととか、場の均衡を保つとか、私が主体じゃないところに比重をかけて収まることを考えてたりするのかも。
ん、ふと思ったけどそれ私が特別何かにずば抜けていようが特別何かに劣ってようが、その力加減を無意識に制御したり、無理矢理力加減を上げたりしてるな。
それ全然ナチュラルに動けてないな。感情も言動も。
(満員電車で通勤する人とか、出勤時間に朝のピーク時に殆どの大人たちが揃って出ていくことをわざわざしなくても、自分の過ごしやすい時間を縫って仕事も生活もすればいいやん と思ったりする反面、仕事の足並みを揃えなくてはいけない側面もあるのか とか、生活の足並みを揃えた方が合理的じゃないかとか考えたり。でもそこに合わせ過ぎることで都合を押しやったりしてないか とか思ったり。)
同じでありながらも特別でありたいなどと思ってしまうこと自体が普通で普遍的で。
同じの中に溶け込むのが心地よいときもあれば、同じでなければならない みたいな圧力にやられそうになったり。
本当の意味での『同じ』などというものは無いんだけど。
どこかにうずもれていたほうがあったかかったりするんでしょうね。
でもそれと同時につまらなさもあって。
あぁ… 無理矢理足並みを揃えてしまってるように感じる瞬間があるからか。
だからそこで私が感じたことや言動を抜き差しして調和を図ろうとしてしまう。
おとなしくしておいた方がいい。活発な方がいい。
…なんだこの『しておいた方がいい』とかw 自分が在る前に誰かが既に居て、そこに合わせてる感バリバリあるな。
で、じゃあ誰も他人がいなかったら私は自由に振る舞えるのか。ハードルは下がるだろうけど。それにしても。
けど他人の普通にしてる言動が私にとってのいい刺激になることがあるのも事実で。
他人を意識していながらも他人に囚われない ってどうしたらいいんだ。
(画像は2018年9月23日放送、HUGっとプリキュア より。)
意識しない っていうのはたぶん無理。気にしてしまうことからは逃れられないと思う。
でも 囚われ過ぎないようにはしたい。
自分に集中出来てないから意識は散漫になるし他者評価を気にしてしまうし。
でもそこで自分に集中っつったって、誰かがしてないからとか、誰かがしてるからとか、
カウンターで考えてしまう。
そう来たらこうか、と。隙間を縫うにしても。
これをしたら喜ぶだろうな と考えてしまって、私の気持ちを置き去りにしたり。
だったら自分の本当にしたいこととか出したい感情はなんなんだろう って。
悲しみや寂しさの感情が外部の事象に触れられて怒りという反応になったりするけど。
悩みの原因の大半は “人間関係” だと言うけど。
いつまでも出来・不出来(あらゆるもの・こと の)を比べて、その比較の中で溺れる人もいれば、比較の波の中でしっかり海底に足を付けている人も居たり。
比べることも比べられることも流されずに見据えていたり。
や、仮に外部の事象を受けて刺激を感じて何か活動的な気持ちが沸いてくるにしても、その源泉はなんだろうな って。
ちょっと、思った。
(迷いや思いをそのまま考えながら書いたので時間がかかったエントリ。)
(曲自体は関係ないけど、Perfumeの『カウンターアトラクション』というCD化されてない曲から。タイトルだけパクった。)