前回はこっち→“d.a.r.k. 痛[-two-]”
以前、コーチングというものを受けてたときに、そのときのコーチが言っていたんだけど、
「僕にとって一番イヤなのは、辞めた仕事先の元同僚に、自分の落ちぶれた姿が見られること」
だと言っていて。(たしか)
私はそうは思わなかったんよ。
というよりむしろ、
こっちの考えに近くて。
惨めになることで復讐できる というような感じ。
ウチは毒親だとは思ってないけど、『頑張ってきた人』なので、常識とか苦労とかに囚われてるような人で。
まぁ、ねぇ、母親の人生に縛られなくていい っていうか。自分の人生を楽しい方向に舵を切っていけばいい んだけど。
別に親に限らず(つか親からはそんなヒドいことはされてないけどさ。単に私が重く受けとめてしまってただけだと思うんで。)
私に危害を与えたり困らせ続けた人とか、そういう過去の加害者の為に、自分がわざわざ被害者になって攻撃をしたい。みたいな。
わざわざ自分で不幸に成り下がって、同情を乞うてチヤホヤされたい。とか。
かわいそうな人なので、なぐさめて欲しいが為に、さらに自らかわいそうの沼に浸かったり。
我慢したり、頑張ったりすることは簡単だし、やること決まってるほうがラクなときもある。
その一方で、普通に、純粋にしんどい気持ちとか、苦しさ、痛さとかを、ただ普通に吐き出すことが、同情を乞うているんじゃああるまいか、と躊躇ってしまう気持ちがあるときもある。
キズつけられた部分がザワつくからか、自ら予防線を張って、自虐や自嘲をして、ツラさを誤魔化してしまってたコトもある。
そうしていく中で、純粋に、ただ、感情を感じる→感情を表出する。というコトが難しくなってしまったり。
一番私が私を 惨め にしない為には、私の感情が今どういう気持ちか気付いてあげることからで。
寂しいとか、構ってとか、褒めて とか。 悲しいとか 嬉しいとか。
小さなところでないがしろにしてきた自分の感情を認めていくコトから、凄惨な感情は穏やかになっていくのかもね。
(書きながらこんな結びになるとは思わなかった)