藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“思考停止の世界の終わり。”

[外部リンク] : 『人は「考え方」を手に入れたとたん頭のよくなる生き物である』(teruyastarはかく語りき)


自分のこのエントリのタイトルは、キリト(PIERROT)の本『思考回路』にあったサブタイトルの一つからパク…


リンク先記事を読んで まだまだ思考が足らないというか、考え方が足りないものだな、というのが思ったこと。


“問題”に対しての“解き方”が自分の中で決まってしまっていると そこから次に繋げることが難儀になってしまってるなーと。
それは公式があるかどうかじゃなく、自分なりの解き方だったとしても。



経験が価値観をつくる。
学生時代に先生になにかされた人は、
「どうせ教師なんて!」
から、
「どうせ大人なんて!」
ってなったりする。

でも、先生になんかされた人でも それを引きずらない人もいれば、引きずってしまう人もいる。

『どうせ大人なんて』
『どうせ男なんて』
『どうせ女なんて』
『しょせん3次元なんて』
『どうせ人間なんて』

……などなど、
…と、今でもリアルにこんなコトを考えてしまうのは何故だろう。

『あのときアイツが私にイジワルしたからだ。』
『あのときアイツが私を裏切ったからだ』
…でも、次に出合う“アイツ”はそうじゃないかもしれない。
けど、次に出合う人に対して、私はきっと、
『ほら、やっぱり!』
という言葉を用意する。
『だからアイツはクソだったんだよ!』
想定された願望を立証するかのように。


私は相変わらず悲観的で過度な不安に怯えておりますが、それは何故なのか。

リンク先記事に、親が子どもに次々に質問させていく っていうことが書かれてありましたけど(これどこかで私も見た記憶があるのになぁ…)、

何が不安なのか、何が不快なのかを問う。
何が気に入らなくてイライラするのか。
何故 当り散らしてしまうのか。
何故 感情を殺してしまうのか。
何故 攻撃的な情動に転化させてしまうのか。
何故 どうせもう無駄なのか。


この人はこういう人間だと断定してしまうことが 人を殺すことになるんだろうね。自分も他人も。

自分はネガティブだと思ってるからそりゃネガティブだわな。
不安に怯えて悲観的でいると何が良いんだろうね。
わざわざ苦しくなるような考え方を採用する理由は 意図を・意味を持ってるんだとしたら、なんで苦しいんだろう。
誰からも理解されなくて悲しい。だから人は分かり合えない? でも理解されなくて悲しいのなら「理解して欲しい」のが本音だろうに。
じゃあ『理解者』だけがいればいいのか?誰もが自分に「イエス」と言ってくれる人だったらいいのか。
全肯定の何がイヤか?
バカにされる?議論が深まらない?たまに叱ってほしい?…それどうコントロールすんだよ?
都合が欲しい?

じゃあ何故都合が欲しいのか?
感情の機微を察してほしいことすらもただの“都合”だけど、それを求めるのは?
寂しいときだけ構ってほしくて、満たされてるときはウザいとか。
どんだけ勝手だよ と。
でも都合を求める?



…ここで止まると、ほんとうにアップデートすらできないロボットだ。
もうちょっと、考えてこよう。