藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“自己否定の肯定。”

[外部リンク] : 『【悲しすぎ】どうして私は人から可愛がられない? ー あなたの知らない「光と影の法則」』

リンク記事の表題はともかくですね、もうそこに書かれてある項目が合致することこの上ないのでございまして。


仕事でもプライベートでもね、とにかく『出来る自分』でなければ“いけない”ってのがあるんですよ。mustなんですね。
そうしていくとですね、どこか無理を押してでも頼まれごとに応じなくてはいけなかったり、頼まれなくなったらダメだ。とも思うんですよ。
その一方で、あまり私にばっかり頼るなよ、と。精神的にも身体的にも疲弊するワケですよ。

けどそりゃあもうホントは自信が無いし、やらなきゃいけないことよりも やりたいことだけやってたいですよ。
けど、やる人がいないからと頼まれる。や、頼まれすぎて受け容れてしまう。
どこかで頼ってくれてるんだ っていう嬉しさに甘えて。

で、
そうしていくと使われることが人間の本分になっていくんですよ。

私の価値観の根底はそうして作られていって、だから『“人間は“物”だ』って思ってます。
全てが機能を補完し合うだけの、利便を求め合うだけの人間関係だ と。

それは分かりやすい仕事での人間関係に限らず、友人関係でも『話が通じる』とか『愚痴を聞いてくれる』とか『趣味が合う』とか、それらは全て関係補完のための“条件”であると思ってます。

人間は100円ショップの商品のように使い捨て消耗品である。
と。


けどそこで、使い捨てられないように、見捨てられないように心を殺して機能を満たすために努めることに、ただただ疲れる。心も体も疲れる。
で、何もできないヤツのために、技術のある・機能のある自分がしなければいけないことが増えていって、心身疲弊させていってるのに、何故か何もできないヤツが心満たされ健康でいるコトが許せない。
嫉妬以上である。断罪していまいたいほどである。

必要以上に頑張っているのに、出来ないあのクソ野郎よりも私は“はたらいて”いるのに。何故満たされない。



というワケでリンク先記事です。
(ここまでが前提。)

1. 「助けて」ってセリフはあまり使えないんですよ。自分より使えないヤツでクソだと見下してるワケですからね☆(毒)
あぁ、むしろ見下してるから頼りたくないのかもね。たとえばちょっと重いもの持つのだけ っていうくらいでもさ。声をかけないのは。
心の中で見下してる人間にちょっとしたことをわざわざ助けてもらうだけだからそれは勇気が要るよね。


2. 『絶叫』はもっとしたほうがいいでしょうね。声量の問題ってよりか、もっと心の中の願望をどれだけ声に出せるか ってのが問題でしょうね。私ストレス溜まると最近物理的に暴れてるので。(←


3. これが今回のエントリの表題でもあるのですが。結局他人に否定しているそれを自分自身で否定してるんですよ。だから相手に対しても窮屈になるし、自分の心も窮屈になっていくんですよ。
『無能な人間はクソだ』ってことは、『無能な私はクソだ』って思ってる。
だから出来ないことに腹を立てている。
「なんでこんなコトも出来ないの!!」って、
出来ない理由を追及されても出来ないんだからしょうがないし、そういう聞き方されたら出来ない理由しか答えようが無いでしょう。
でも、これを自分に責めてしまう。

ここで先に必要なのが、
「じゃあどうしたら出来るか考えなさい!!」の前に
出来ない自分を認めることから” なんでしょうね。不出来でも・不完全でもいい っていうコトを。


これを先に自分に向けていかないと、いつまで経っても他人を許せない自分が出てきてしまう。
まずはそこからなのですが、それ自体をなかなか許せない自分についてはまた次回。