なんていうのか、その評価の是非を問わずとも、なんだか一風変わったことを こだわりを以ってやって、それを主張すればなんでも、
「これは芸術だ!」
ってコトになるだけだと思ってしまうのでーー……。
子どもがクレヨンでぐちゃぐちゃに描いたように見える絵も当人にしてみたら・親にしてみたら芸術ですから。
思い入れの問題。 …っていうかー。
あぁ、絵の問題になっちゃうと難しいな。
『とめはねっ!』であった、前衛書とかは一つの流れとかありそうだけど、作中に出てきたセリフで、「これは評価できない。資格がない。すまない。」みたいなものもあったので、“分かる”人にはわかって、分からない人は分からなくて。
評価する人がそれを好し として評価されたから、それが芸術だ! っていうのもなんか違うと思ってしまうんですよね。
なんていうの、社会主義的? その どうにも『右に倣え』感 があるんですよ。どんな表現活動にしても。
琴線に触れるものの基準が曖昧で。
評価する人がいて、それを広める人がいれば、その作品の真価はどこにも問われないような。
……と、冷めてるワケですよ。いつも通り。ははは。
まぁ、それはさておき、なにか芸術っぽい表現活動をなにかしたいか?と言うなら、ボディペイントが今ふと浮かびましたけどね。
真っ白な空間に色んな絵の具をブチ撒けて。自分にもね。
それこそ子どものクレヨンのぐちゃぐちゃしたものになりかねないでしょうけど。
色んな鬱積が晴らせるんじゃないですか?