藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“[社会]の選別。”

カテゴリは変えましたが、前日エントリの続きのようなもの。

たとえば、自分が見捨てられたくなくて、なにかにしがみつくとする。

家、友達、近所、学校、会社。

そういうものに見捨てられたくなくて、無理矢理自分を装って。
そうして、そういうものとの関わりが煩わしくなったとする。

結果、家、友達、近所、学校、会社というものと距離を取ったとする。
所謂、社会の接点 というものと、断絶していくものが出てくる。



よく、学校卒業後は『社会に出るのがこわい』と言う。
そこで言う『社会』って何なのでしょうか。

生まれて、ある程度 年を重ねて、保育園に入り、幼稚園に入り、小中高と学校。これも“社会”に参加してるんですよね。ただ、よっぽどで無い限り、親の薦めとか、近くのとこを選んで入学する。中学までは大概エスカレーターで。高校から選び始めて。…中高一貫もあるけどね。
で、大学行く人はそれを選んで。高校出て働く人もそれを選んでそうなっていく。

それも一つの“社会に出る”ということを選んでるワケで。
学校で知り合った友達と遊ぶのも、そこで社会に触れるワケで。

割と無自覚にね。

登校拒否になって、『学校行くのコワい』ってなってるのも『社会に出るのコワい』って言ってるのと同じですよね。あんまり、それを『社会』とは言いませんけど。

話の軸の年齢を重ねます。
働かない人の社会の接点について。
たとえば『夜回り先生』読んでてね、引き篭もりのコに、「ちょっとでも外に出て親切してみな」とかあったと思うんですね。そこで誰かからその姿を感謝されて、社会とのプラグが繋がる というのがあったはず。

専業主婦の人とかの場合、町内会・自治会や、学校のPTAなどでそういう繋がりが、社会との繋がりがあったりするのでしょう。

……じゃあ、それをしない場合は?

「社会とどう関わるの?」、「世間に顔向けできない」
社会への奉仕や、何かの役に立つことをしたことに対する対価が給料・報酬とかある。
(…すごく蛇足なんですけど、……書いてて無自覚でしたけど、収入の“表現”って考えものだな。収入を“給料”としか考えてないことってまだ意識レベルで範囲が狭く・浅かったですね、私…。(苦笑))
生きていくためには社会と繋がらなければいけない。
奉仕による対価を支払う相互関係が無い場合、誰かに食べさせて貰う場合(働かない場合、誰かにゴハンを頂く場合)も同様に。それは社会的な関係を…生存本能を満たすパイプをどこかで繋いでおかないといけないということになりますよね。

私自身、なにかしら知り合いから食べ物頂く場合が結構ありますので…。
(ここで文面を緩ませますけど。いつもホントお菓子とかケーキとかありがとうございます☆)


なるほどじゃあ、『社会との繋がり』というのは、『食べてくために必要』というコトになるんですね。生きるために。…結局ここですか。生存レベルでの見捨てられたくない心になるのでしょうか。

じゃあ、完全自給自足が出来ればいいんでしょうか。
どこかの山奥に田んぼや畑を持っていて、近くに川でも流れてて魚でもいれば。
それともどこかの“ホームレス中学生”みたいに雑草でも食べて、飲料は公共の場の水道水(“東京の水道水”が販売できるレベルですからね。(笑))を飲んで、排泄も公共トイレを使えば大丈夫ですし。
……じゃあ問題ない?

ここでマズロー欲求段階説です。

[外部リンク] : 『自己実現理論』(Wikipedia)

“生理的欲求”は満たしたとします。“安全の欲求”は……たしかに…うーん。それこそホームレスみたいな感じになるのでしょうか。公園の雨風が凌げる遊具の中とか?たとえばその安全の基準を、『ほかのホームレスがいるから安全だ』として選ぶとすると、それは『安全』じゃなくて『安心』を選んでますよね。
マズローのその次の段階ですが、“所属と愛の欲求”、『安心』はこれになりますよね。

社会との繋がりは必要なのか? …ということに関して、ここが問題になってきますよね。

そしてそれがそのまま、“承認の欲求”になりますね。
愛情の相互受容。相互認証。拙い言葉のやりとり自体にも価値があるような。
人間に言葉があるのは言葉が必要だからと言いますよね。だから話し慣れてない人は…普段話さない人は話せなくなるとも言いますし。

“所属している社会内での愛情の交換(交感)”
誰かに見捨てられたくない、社会に見捨てられたくないというのは、生きること(食べること)と、愛情の交換(交感)が出来ていればいい。…ということ?
…ということは、それ以外に存在する社会というのは必要無い ということになるのでしょうか。

所属する社会を選んでいる。友人、学校、会社。
社会を選別している。

(……ここで ようやく表題です。。。)


たとえばね、私も年を重ねて地元以外での知り合いとか出てくるじゃないですか。
で、その地元じゃない…知人の住んでる地域でね、何か災害があったり事件があったりすると「大丈夫か!?」って思うわけですよ。
相手の住んでる・関わってるコミュニティ…社会なんて知らないじゃないですか。
けど、各個人にそれぞれの持つコミュニティが、社会があるのだから、その友人・知人が住んでるところが穏やかで暮らしやすい状況であることを願うわけですよ。

(ほぼ日で糸井さんとマイケル・サンデルさんの対談の中での、『各国の人を集めてキャンプする』 っていうエピソードも分かりやすいかな。)
[外部リンク] : 『マイケル・サンデルさんと自由に話した午後(第6回)』(ほぼ日)


それがあれば…体感レベルで感じ取れれば、戦争なんて無いよね、って話でね。

でも………これは劇場型メディアによるある一つの感じ方になってしまってるのかもしれませんけど、人の不幸がメシウマになってる ってコトで。
事件や災害をセンセーショナルにメディアを通じて伝えられ、見たほうは「あぁ、ウチじゃなくて良かった」とそう思うのです。「あぁ、私に関係なくて。安心した。」と。
これが生存の防衛本能からの不幸の欲求。
(過去エントリに書いたことでもありますが、森達也さんの書籍でもこういうくだりは結構見たような。)

(個人的にはね、2時間ドラマとかでDQNが出てきたりして暴力的な出来事に発展していくのも、全然ドラマというエンターテインメント(←どうだろうね?)として楽しめませんもの。雑多な人と関わると、それは楽しむ材料になり得ないですもの。)

また逆にね、擬似的に人の痛みを背負って…というかその痛みを下した人を赦せなくて、誰もが裁きたくなってしまう、っていう心情も問題なんですけどね。(一億総批評家、批判家とか誰かが言ってたような。)

内田樹さんがよく言われてるのは『身体性』って言葉で、それってどこまでのリアルを体験した上での言動なのか っていうのがね。
……で、また極端に、相手の痛みを想像する についてもそれは必要です。けど、過度になってもいけない。(こういうこと書いて、じゃあ相手の痛みに鈍感だったらいいのか? っていうと、そんなワケは無いのに極端に行っても困るのですが。)



自分の住んでる…関わってる社会 っていうのと、誰かの関わってる社会というのは繋がってるハズなのに、何故か思うのは断絶した感情。選別された思い。
となりの芝生的思考で、自分が苦労してるときに相手が楽してるのがムカつく というのがあるからかもしれませんが。自分の置かれた境遇が、搾取されるばかりで“上”の方々は利潤ばかり満たそうとして。とかね。

あぁ、まさに“格差社会”とかね。(苦笑)
社会、分けられてますものね。
『国民不在の権力争いで足の引っ張り合い(定型文)』とかね。
政治家さんの社会に一般大衆の社会は知ったこっちゃないでしょうし。ご年配の方々に若年労働者のことなんて知ったこっちゃないでしょうし。その逆も。
広島・長崎の人…被爆2世・3世の人と福島のあの範囲内の方々は繋がるかもしれないですが、そうでない社会に属してる人には知らない社会でしょう。



つらいのはいつだって“自分”で、自分の境遇を改善してほしくて仕方が無い。
もちろん、自分が幸せでないと、周りを幸せにすることなんて出来ないと思うけど。
…のだけれど、いつだって自分より上の生活をしてる人に勝手に憧れて、そこにはまだ至ってないからと、改善されても尚、さらに要求をしたり。というのもあったり。
それが正当な要求だと、第3者視点で・客観的にだれがどう裁量を下そうか。

所属する“社会”を選別・排他せずに、拡張することってどうしたら良いのでしょうかね。
そうでなければ、リアル(現実)にSNSがあるような環境が、ずっと続いてる、小さなコミュニティに居続けるような。
…うーん、でも勿論、複数のコミュニティを渡り歩く人は多数当然いるんだけどね。

そこらへんは棲み分けになるのかな。んーでも、またそこで、ある「Aコミュニティに所属してる人がBコミュニティにも所属するなんてあり得ない!」とか言うことも出てくるのかな。『「オレは分かってるんだぜ。」的な態度を取るな』というか、『金持ちが貧乏を語るな』みたいな?
それは第3者が勝手に否定するだけで当事者視点の欠落にもなるのかな。

なにと関わって生きてくかは自由だけど、関わるものが勝手に制限下されるのは、どっちも微妙だな。