藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“【100分de名著 パスカル パンセ】 : 『第4回 人間は考える葦である』を見た。”

2012年6月27日放送。
100分de名著 パスカル パンセ 『第4回 人間は考える葦である』を見ました。


司会・島津有理子アナウンサー
   伊集院 光

講師・鹿島茂(フランス文学者・明治大学国際日本学部教授)

ゲスト講師・福岡伸一分子生物学者・青山学院大学教授)


以下、番組内容をほぼテキスト化。(文脈オカシイとこあるかもしれませんがご了承下さい。)


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

冒頭VTR・パスカル【人間の理性には限界がある。 私たちはそのことを 肝に銘じるべきだ。】

ナレーション:「人間は決して 驕ってはならない。 そう語ったパスカルの思想には今こそ噛みしめる価値があります。」


島津:「福岡さんから見たパンセの思想についてどのように?」
福岡:「今 科学万能の時代ですけども だからこそ パスカルの世界観というか思想を もう一度再評価すべきなんじゃないかと思っています。
17世紀…パスカルともう一人…キーになる人物がいたんですね。それはデカルトという人物なんですね。」



デカルトについて

2012 07 16 100分de名著 パスカル第4回1


島津:「 『我思う、ゆえに我あり』と聞けばデカルトだと、みなさん聞いたことがあるのではないでしょうか」

パスカルに対して、 デカルトの名はNG。

鹿島:「そうですねぇ、デカルトっていうのはすべての面で対照的な存在で、やっぱり両雄並び立たず というか。すべての面で考え方は逆ですね。」

『パンセ』断章77より【私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できることなら神なしですませたいと思っただろう。】

島津:「デカルトは許せないって、パンセに書いてあるのが面白いですね。(笑)」
伊集院:「どこが違うのかという…」
島津:「こちらに簡単にまとめてみました。」

2012 07 16 100分de名著 パスカル第4回2


島津:「このように正反対のことを言ってるんですね」

島津:「そうしたパスカルの思想が、福岡さんは今 何故大事だと思われるんですか?」
福岡:「17世紀にこういう考え方が出てきたあとですね、ま、その上に 私たちの近代社会、現代社会が 成り立ってるわけですけども、私たちは デカルトの考え方を採用して パスカルを捨てた っていうふうにみなすことができると思うんです。」
伊集院:「今までは」
福岡:「はい。現在は。 デカルトの考え方は…この世界は全部 因果関係で成り立ってて メカニズムとして理解できる。それは私たち生命体でも 精密な機械のようなものだとみなすことができる。だからその因果関係を解き明かせば、生物だってこの世界観だってメカニズムが分かり、それを制御できる。…っていうふうに考えるわけですね。 えー…その考え方の中にはですね、やっぱり自然とか生命に対する ある種の謙虚さが欠けているんじゃないかと思えるんですね。」

島津:「『すべてを人間が制御できる』っていう考え方」
福岡:「メカニズムを追求していけば、世界の理解に達せられる っていうところにですね、ある種の 行き過ぎた傲慢さみたいなものが、現代社会には出てきていると。」

伊集院:「ま、たとえば もの燃やすとCO2が出るけど、これくらいのバランスで草木を植えたらきちんと循環するんじゃないか みたいなことを計算する。計算して できるんじゃないか ってことをチャレンジしてるってことは ま、 ある種 デカルト的っていうか。」
福岡:「世界がものすごく複雑で、よく分からない。 しかし、その中には精密な因果関係があって、それを突き詰めれば 必ず世界が理解できる …っていうのがデカルト的な世界観だと思うんですね。
でも、パスカルは 必ずしも、合理的な因果率をつめただけでは全部のことはわからない。」

伊集院:「そうすると僕はデカルト的な気がします。知らないだけで 絶対解明できる気が どっかで してるんですけど。 それはまさに 最先端の科学を研究されてると とてもじゃないけど説明できないものも出てくるもんですか?」
福岡:「たとえば 私たちは受精卵から出発して それが分裂して あるものは脳細胞になり あるものは心臓の細胞になり あるものは皮膚の細胞になる っていうふうに分かれていって、人間というものが出来ますよね。
そのプロセスっていうのは 全部プログラム化されている っていうふうに考える考え方があるわけです。 しかし 一方ではですね その場その場でね、臨機応変に色んなことを細胞が相互作用で空気を読みあって発生的にできている っていうふうに見るほうが、ほんとうの自然の見方としてね、正しい場合が多々あるんですね」

鹿島:「パスカルがそれとほぼ同じことを言ってる言葉があるんですが『理性の最後の行動は 理性を超えるものが無限に存在することを認めること』と言ってるんですよ。」
島津:「理性の行き着いたところには、それを超えたものがある っていうことを知る。っていう。」
鹿島:「そう。超えたものがある っていうだけじゃいけない。超えたものがある ということを知ることがまた理性であると。これがパスカル的な言い方なんだけど。」
伊集院:「ある意味 科学が万能ではないってところまで理解することが科学だよ。みたいな。」
鹿島・福岡:「「そういうことです」」


ナレーション:「さらにパスカルは、私たち人間もまた 理性では割り切れない存在であると考えました。 福岡さんが好きな言葉があります。
【人はみな変わる。過去の自分は、もはや同じ人間ではない。】(『パンセ』断章122より)」

福岡:「これは非常に鮮やかな、『我思う、ゆえに我あり』に対するアンチテーゼだと思うんですね。 えー実際ですね、現在の生物学はこの言葉を再発見してるんです。実は、私たちの体っていうのは 自分の体は自分のものだと思っていますけども、細胞のレベル、あるいは細胞のもっと下の ミクロな分子のレベルが ものすごい速度で 合成と分解を繰り返して 日々 更新されてるんです。消化管の細胞なんか2・3日で交換されてしまいますし、脳細胞ですら中身は入れ替わってます。だから今日の私は 明日の私とは違うし、昨日の私とも違う。一年も経てば 私たちは 人間は物質レベルでは入れ替わっている。だから 私たちが『自分は自分だ』っていうある種の同一性と言いますか、一貫してない っていうふうに よく怒られますけども、実は私たち自身がどんどん更新されているんで、自己同一性とか一貫性とか 自己実現というのは、ほんとうはね ある種の幻想だっていうこと(に過ぎない こと)をこの言葉は言ってるんだと思います。」

伊集院:「ちょっと脱線するかもしれないんですけど、『我思う、ゆえに我あり』に対するアンチテーゼだとすると、すいません 『我思う、ゆえに我あり』のほうは どういうふうに理解をすれば…」
福岡:「『我思う、ゆえに我あり』というのは、何がどんなに変わっても 私というものは 私自身は同一性を保っているから だから 私というものは実在している という根拠にしているんですよね。」
伊集院:「真逆ですよね」
福岡:「でもその 私自身も、絶え間なく変化しているので、記憶だって塗り替えられている。 自分が自分だって思ってるその 同一性だって常に揺らいでいる っていうことをパスカルは教えてくれてるんじゃないかと思うんです。」


伊集院:「でも分かりますよ。長いことラジオやってると、5年前に言ったことと違うじゃんか って、10年前に言ったこととそれ同一性とれてないじゃないか って言われたりするんですけど、考え方としてはいつも、まぁ、過去に僕がその女の人をどんなにキレイと思ってて、現在の価値の基準でキレイじゃなくても しょうがないよね そういうもんだから って思う。」

鹿島:「それまさにパスカルが そういうこと言ってるんです。『彼女も昔の彼女ではない 私も昔の私ではない』そういう まんま 言ってます。 変わってずっと変わるのがいいんだ と 当たり前と。」
伊集院:「なるほど。それこそが人間なんだよね という。」


ナレーション:「自然も、社会も、人間も、偶然に左右されながら変わり続けている。すべてを知ることはできない 未来のことも誰にも分からない。 だからこそ人間は驕ってはいけない。絶望の淵にあっても 希望を捨ててはならない。パスカルは私たちにそう語りかけているのです。」



パスカルなら現代社会をどう見る?

ナレーション:「あらゆる難問(原発事故、金融危機)に直面する現代社会。ここからはパスカルの思想をヒントに 私たちが今後どのように生きるべきかを考えていきます。」

島津:「福岡先生、この問題にこそパスカルの思想が活かされるのではないか というもの なにかありますでしょうか。」
福岡:「そうですね、昨年私たちが目の当たりにした 原発の安全性の問題。これはですね 私たちがこのシステムをメカニズムとして捉えて それを合理的に突き詰めれば 絶対安全なものがある っていうふうに、これはほんとにデカルト的なね、考え方で 工学的なものを推し進められてきたわけですよね。ところがあるとき 自然の大きな転換によって その合理性の考え方が崩れてしまう っていうことが起こったわけですよね。
えー、パスカルであれば、私たちの合理性の考え方には 必ずこぼれ落ちてしまうものがある って、いつも合理的な考え方の中に保留をもうけていたと思うんですね。」
伊集院:「なるほど。そこにパスカル的な考え方があれば、さらなる安全装置があった…作ろとしたかもしれない。」
福岡:「…考えておけば、その合理性からもう一歩出たところで、また別の合理性を考える契機が生まれたハズなわけですよね。でも 自分たちの範囲の中で その合理性を完全なものだと思ってしまった。 だからほんとに メカニズム思考が持ってるある種の落とし穴だと思うんですね。」

鹿島:「合理的っていうのは、もっとドギツイ言葉で言ってしまうと、自己利益の最大化 ということなんです。

2012 07 16 100分de名著 パスカル第4回3


鹿島:「合理的を言い換えるとね。 自己利益最大化の原則で、それぞれの各人が行動したことが 回り回って人間の集団においては自己利益に反するということになっちゃうわけですね。合理的思考、自己利益最大化 まぁそれ自体は別に誤っているとも 間違っているとも言えないことなんですけども、考えに考え、合理的な考えを突き詰めていくと、非合理になる というですね、パラドックス。ま、これが今の日本の色んな面で直面してることだと思いますよ。」


◎私たちは どう生きるべきか?

島津:「その 人間の理性には限界がある。あと 合理的なことだけを突き詰めては解が出ないことがある。…そうしたことを知った上でですね、私たちはどうやって生きるべきかと。パスカルは言ってるんだと思いますか?」

福岡:「現代社会っていうのは、何かを完成させなければならない っていうね、ある種の強迫観念に いつもとらわれているわけです。 締め切りがあったり、納品しなくてはいけなかったりとか、完成されたものへ アプローチする っていうことに 汲々(きゅうきゅう)としてるわけですよね。でもそうじゃなくて、世界は必ず色んな人たちの手によって 更新されて、書き換えられて、塗り替えられていくものなんで、その(更新されていく)プロセスの一部に参加すればね それでいいんじゃないか っていうふうにパスカルは思ってたんじゃないかなと思うんですね。」

伊集院:「なんとなくです、そのデカルトの考え方はゴールに向かってずーっと進んでいくもの で、ゴールというものに到達するんだ っていう。だから合理的を進めて 進めて 進めて いくと、いっちばん究極に合理的な、幸せな暮らしがあるって思って 頑張る。
   で、パスカルの考え方は、ずーっと合理的を進めていってもゴールには着かない。ある程度いってるこの上り調子のところに関しては快適はあるかもしれないけど、またこうやって(下りも上りも)繰り返すことは覚悟しとけよ。…っていうか。」
鹿島:「そう。だから 世の中変わっても、社会が変われば、新しい問題はいくらでも出てくる。だから ここで終わり、もうここで必要ない、なんてことは無いんです。常に考える という問題を提起する というですね。どんどん どんどん出てきちゃうわけですよ。解決済みだと思ったのに、もう解決じゃない っていうね。 人生ほんとにそうでね、解決済みということは 無いんです。」

伊集院:「人生って 完成しないのが楽しい というか。パスカルは考えても考えても、(人生の答えは)出ないんだけれども、考えるべきだ と。」
鹿島:「そうですね。」

島津:「最後にパスカルの有名な一説を味わってみたいと思います。」

パンセ断章347より。【人間は、一本の葦(あし)にすぎない。自然の中で、最も弱いもののひとつである。 しかし、それは考える葦なのだ。 人間を押しつぶすためには、全宇宙が武装する必要はない。一滴の水でさえ 人間を殺すに足りる。 しかし、たとえ宇宙が 人間を押しつぶしたとしても、人間は宇宙よりも気高いといえる。 なぜなら、人間は自分が死ぬことを、宇宙の方が自分よりはるかに優位であることを知っているからだ。 宇宙はこうしたことを 何も知らない。 だから、私たちの尊厳は、すべてこれ、考えることのなかにある。 私たちは、考えるというところから 立ち上がらなければならないのだ。 ゆえに、よく考えるよう 努力しよう。 ここに道徳の真理があるのだ。】


島津:「なんとなく胸が熱くなるような エールを送られた気がするんですが。」
伊集院:「僕は考えこむ方だから、考えることの果てしなさみたいなものに対しては やっぱりこわかったりもするんですよ。でも逆に言えば、考えてさえいればすぐに結果でなくても ずっと許してもらえてる感じはするからそこに関しては やっぱり 色んなものに追っかけられはしますから。ちょっと安心感はある。みたいな。」

福岡:「やっぱり あの、『“葦(あし)”である』と言ってるところに意味があると思いますね。つまりその 葦は いつも風に吹かれて揺らいでるわけですよね。そういうふうに 私たちも 弱い存在として 絶え間なく揺らいでいるわけですね。でもその中で 考え続けなければいけない。 そして、この全世界の・全宇宙の すべてのことを 知り尽くすことは出来ないわけです。
でも、その日 一日、なにか一つ発見があれば良い っていうふうに読めるわけですよね。 そして、なにかを完成させるのではなくて、未完成である状態が唯一 考え続けさせる契機になっている ってことを言ってると思うんです。完成してしまうと、そこで考えは止まってしまいますよね。」

2012 07 16 100分de名著 パスカル第4回4


鹿島:「だからこのパスカルのパンセというのは、考え続けた結果の考えたこと っていう。そのタイトルがね。」

2012 07 16 100分de名著 パスカル第4回5


伊集院:「あーそこに繫がる。最初にね、パンセってどういう意味ですか? 『考えたこと』。 あんだけ考えた人が亡くなったあとに残された …考え続けることが尊いと考えた人が置いていった、考えたこと。」
鹿島:「しかもそれが未完であった。それはある意味、未完の思考。 完成ということを放棄する。彼は客観的には パスカルの死が それを止めたわけですけども。しかし パスカルがほんとに生きたとして、徹底的に考えたら やはり未完になってたと思いますよ。」

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
(以上、ここまで番組内容。)


完成や、完璧は求めがちになってしまうけど、それ自体が…完璧を求めること自体が苦しいし、完璧になった と、自分で思い込んで、変化する時代に対応できずに固執するのもよくない っていうか。

社会というシステム自体を、国家が政治が、システマティックに構築したとしても、これから何十年〜100年とか続く、人が生きていく中では、自然の猛威というものは必ずあって、それがシステムでは勝てないものもある。(つか、勝たなくてはいけないのか? という疑問もありますが。)
また、構築された理想の社会モデルの中では、未来の人口数とかも推計されると思うけど、それ自体も自然なもの。人口が…子どもが、合理的な原因と結果に基づいて必要な数が存在しているとも限らない。


おそらく 時代背景的なものがあったのかもしれませんけどね。
高度経済成長の時代の中ではデカルト的な考え方のほうが都合が良かったんじゃないか っていう。
一つの目標に向かってね、理想の人生モデルみたいなものを提示したほうが発展する っていう。…今でもテレビとかで言ってるじゃないですか、家族構成のモデルとかね。その核家族の構成自体も今では当時言ってたこととは崩れてるワケですし。
何歳で結婚し、子どもを何人生み育てて。終身雇用で一つの仕事に従事し。その年齢までを想定したローンを組んで大きな買い物(家とか車とか)をする。とかね。
そうして経済を循環させていくことで潤っていく。それが当時では…デカルト的なものを採用したのはそうした理由からなんじゃないでしょうかね。


ですから 鹿島先生が言われた、
『合理的=自己利益の最大化』
というのはすごくしっくりくる考え方ですね。

けど、この考えをこじらせすぎた結果、『自己利益』という…本来(おそらく)国の利益を最大化するための考え方だったハズが、国はもうダメだ、と誰もが思うようになって、じゃあ自分だけでも生き残らなくては、という生存欲求がはたらくのか、自己利益がほんとうの意味での自己利益になり、
非常に狭い見識での“利益”を追求し・エゴイスティックになり、(前回までにあった、自己愛の方向性でもありますよね。)
人を操作したい感情に駆られる。(『鏡の法則』の野口嘉則さんは、これを“コントロール主義”って言ってたような。)(←で、誰もがこの“コントロール主義”を持つものだからこそ、思い通りに物事が進まないと“不安”や“怒り”が増幅して、あとは分かり易い顛末を迎えてしまう。っていう。)
(その欲望を叶えるために、思考停止状態だからこそ、お金や、権力や、暴力や、名誉…というものもに惹かれてしまって、エゴを屠ることになる。)

……その結果が、今の経済格差や不況に繋がったり、仮に理想の物欲を満たしても幸福感が感じられない。っていうところに繋がるのではないでしょうか。


【人はみな変わる〜…】という部分について、福岡伸一先生の言われたことは分かりやすい。つか 分子生物学の立場から仰られることなので、どうしても納得してしまう。
生物と無生物のあいだ』は読んでないのですが、
爆問学問に福岡伸一先生が出られた回でそのようなコトをお話しされてたのは覚えてたので。
構成する分子情報が食物を日々とることで入れ替わったり、
浴びる情報から思考や発言が変化していったりとかね。


福岡先生が、『…記憶だって塗り替えられる〜』という発言がありましたけど、これは現在の思考体系や・現在までの経験から、過去の記憶の解釈が異なってきてしまう ということになるのでしょうかね。

今の生き方や、生きることに付随する意味の考え方を、今の自分を強化・肯定するために使ってしまうのかな。と。
(それは自己嫌悪や自己否定もそうかと思いますけど。(おおもとは自己愛だけど) これまでの過去の全て、記憶の全てを自己否定の材料に使ってしまうような。)


『理性の限界』について 多少 触れられていたのも面白かった。
これは高橋昌一郎さんの本を読んでみたい気分ですけどね。
(……まだ読めてないです…。)

『科学が万能ではない ってところまで理解するのが科学だよ』というように、確信と疑問のダブルスタンダードでね。
ふかわりょう氏も、『無駄な哲学』という本を出版されてましたけど、そこから私も哲学自体はなんの役にも立たないことを自覚(元来、哲学が道楽という考え方もあるそうですので。)しながらも つい哲学に興味を持ってしまったりとかね。)
(その、全てに確信と疑問があるからこそ、私自身としてもどこか不安が絶えないというか、ネガティブに陥るものであったりもするのですが。(苦笑))



後半、そもそもこの、『人間は考える葦である』とは なんなのか。ということについて、
断章347の解釈として、福岡先生が『弱い存在として絶え間なく揺らいで〜考え続けることが大事』と。

この、揺らぐ というのは、スピリチュアル的に(←?)(私がこの考えを知ったのは須藤元気氏からのものですが、)すべての物質は振動する。というコトに繋がるのかしらね。

で、『人間は考える葦である』について、yahoo!知恵袋にて、リンク先記事にあるように、弱さと柔軟性の比喩として、『人間=葦』だとしていると。
柔軟性を、弱い人間が兼ね備えるために、考えることが必要だと、パスカルは言いたかったのではないでしょうか。

デカルトとの比較フリップで、デカルトは『データ重視』、パスカルは『時には直感を信じる』とありました。

この、直感について、
前、NHKの『仕事ハッケン伝』という番組で…そのときのメインだったピース又吉さんが、ローソンに務めるということをやってて、プレゼンで色々出してたんですけど、
(うろ覚えだけど、ローソンの企画部として課題に挑む又吉さんのVTRを、のちに 大きな会議室のようなところで、又吉さんと同行したローソン社員や、相方・綾部さん、社長・新浪さんがそのVTRを見る という番組だったと思う。)
そのとき又吉さんが直感的に物事を判断してた中で、
そのVTRをともに見ていたローソン社長の新浪氏の発言(だったと思う)で、
『直感は、さまざまな思考を巡らせたものが土台にある』
という、実に 文学オタクであるピース又吉さんらしい評価をされてたのに思わず唸りました。




悩んだり、考えたりすること……まして私のような考えすぎて時にネガティブのほうへ舵を切るような人は、考えること自体の無意味さもよく思います。
しかしこれまでの中で、早計に判断しないということ、考えを途中で止めずに続けることがどれだけ大切かと。
また、それは(後半にもあったように)時代も否応なく変化するわけだから、思考が時代の流れを経て役に立つときがくるかもしれない。……もちろん、来ないかもしれないけど、それは断定できないから。

この、パスカルのパンセ、考える意義みたいなものは、すごく支えになるものだなと思いました。

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(2012/05/25)
鹿島 茂

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