藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“駄文 21(無知の自慢)”

この前、cali≠gariが『活動休止“休止”宣言』したときに、たまたまyahooのトップニュースに載ってて、で、ヤフコメが付く記事だったみたいで、

「カリ ノットイコール ガリ ……ってなんぞwww」

っていうコメントとかがあったのに対してちょっとイラッとしたからこういうエントリ書いてるワケでも無いですが。(笑)

「なにこいつら、知らねーしwwwww」

とか、まー、なんでそう知らないことを自慢したがるのかよく分かりませんが。
cali≠gariに限らずに、知らない人の活動が取り上げられてると、そういうコメントつくのは何故かしらね。
知らないなら知らないでスルーするとか、ただそれを『知った』こと止まりにしておけばいいのにね。



少し話変わります。聞いた話。

進物包装で、
「熨斗(のし)お付けしますか?」

に対して、

「のし ってなに?ww」

みたいなリアクションした人がいたとかなんとか。



その嘲笑? なにかしら?

その『無知』が純粋な好奇心からの表れなら、別に大したコトじゃない っていうか、ワクワクが溢れた みたいな感じで笑みがこぼれたとするなら 割と肯定的なんですけどね。

『無知は罪』っていう。
無知はよくないことだ。って。

無知の知』ともいう。
自分の無知に気付いてないほうが難儀で、先ず自分が無知であることを知ることから “知る”が始まる。

(詳しくは無知-Wikipediaを。)

で、

“また知らない事を知っていると考えるよりも、知らない事は知らないと考える方が優れている、とも考えた。”(無知の知 より。)


知らないことは知らないと考えるほうが優れている に留まって、知らないままでいい というのならそれは罪だよね。『無知は罪』になるよね。

(このへんが、『無知の知』をGoogle検索したら野田総理の田中大臣の件がたくさん出てきたからそれに繋がるんでしょうけど。)

先ずさ、『“無知”は恥ずかしいこと』みたいなのが、潜在意識にあるから、無知を肯定する言葉を使いたがってしまうんじゃないかね。それが一般常識なら尚更だし。
『なにも知らない自分を知られるのがコワい』
『なにも知らない自分をバカにされるのがコワい』
という。
自我なのか自尊心なのか、そういうのが強い人こそ、自分を肯定する言葉を使い続けて現状のままであろうとして他者を批判・否定したりするから、無知を自慢したがってしまうんだろうか。


ま、興味・関心の範囲もあるから、どんなに知ることが大事かと言っても、琴線に触れなかったり、どうしても頭に入らないこともあるからね。

当然 世の中の万物 全てのことを知ることはできないし、知るとしてもそれらを全て抱えて行動していくのはなによりも身体的・精神的にも酷なことで。だから分業があるのだし、一人の人に全てを求める、完璧を要求するのはそれこそ酷で。



知る というハードルが高くなってしまってるのかなぁ。
相手のことを知る、知らない事象を知る というコトに興味を抱きにくくなってしまってるのかなぁ。
今 抱えている自分の現実で、手一杯になってしまってるからなのかなぁ。

もっと単純にね、たくさん知っていけば思いやりとかも増えるだろうに っていうのもあるんですよ。
殺人や自殺が減っていってさ。殺伐とした世の中にならないと思うの。



もうねー、私なんて知らないことだらけですから。ホント恥ずかしい。恥ずか死ぃ☆
できることだけなんとかこなして、無理なことは巧いことかわしてるだけですから。逃げてるだけですから。
けど、一方で・どこかで『私の知らないところで勝手に世の中回すな』って思う部分もあって、何も知らないのが悔しいコトもあるんですけどね。


私の好きな漫画、『レヴァリアース』(夜麻みゆき 著)で、知ること・学ぶことに疑問を持ったシオンさまが混乱の渦中にあるときに 訪れたザードが、
『知るコトを知るために学んでいるのだな』
って言っていったのはスッとしますね。



たまたま私もこれまでの中で、さまざまなことを知る機会があっただけだと思う。それがあってたまたま出来ることをして、なんとか仕事したり多少の優しさを得たりして。
知ることへの畏れを抱いて・知ることへの恐れを超えていければ、自ずと無知をひけらかさずに、真摯に知るコトを知っていくことができるのではないでしょうか。



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