藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“駄文 19(全てのものは いずれ消えて無くなるもの。だから何か残したいと思うもの?)”

いつか人は死に、誰かの記憶からも忘れ去られてしまうもの。
ならば、それでも何か残したい。…そう思うのが人間として当然のもの。


………なのでしょうかねぇ?


うーん、たとえばね、子孫繁栄とかも疑問だし。“血”を残す、繋いでいく、っていうコトにも疑問だし。
マズローのアレじゃないですけど、生活基準の最低が保障されてるからこそ、こんな疑問が浮かぶのかもしれませんけどね。

なんて言うのかなー、他人のものは残しておきたいですよね
人との思い出でもさ、いや、これ、私に限った問題じゃないよ。
友達より職場より何より、家族とかが一番大事なのに、ないがしろにするものじゃないですか。…すっごい若者気取りで(←笑)言うとですね、記念の写真とかでも、家族とのものより、友達とかと一緒のほうが撮りたがって残すじゃないですか。
まぁ、それは家族とゆー身近なものだから っていう照れもあるんですけどね。


何かを残したい、っていうその、思いも、
自分がこれから生きていく上で、誰かとの思い出とかを取っておいて懐かしみ、愛おしむことで残していくこと。 そして、 自分が死んだときに、自分の生きた痕跡を残しておきたい っていうのは全く別問題で

前者は、今、生きてる“私”にとってすごく大切なものなの。だからすごく、ある意味で糧になると思う。
但し、“私”以外の人にとっては、どこか興味も無いものかもしれないけど。
後者は、今の“私”にとっては必要ないものかもしれない。ただ、もしかしたら“私”が死んだときに、誰かが想ってくれるかもしれない。もしかしたら。


何かを残しておくことは、未練なんだろうか。執着なんだろうか。


ま、私はヲタなので、部屋の中は本やらCDやらで溢れかえっていて…これはただの執着で 断捨離できないだけだと思うけど。(笑)
ある意味ではそんな部屋も私を構成する一つの要素で、自分の何も無さを他人の素養で埋めているようなものでね。(部屋の状態が、その部屋の主の心理状態とも言いますからね。)
私が大切にしている、私の“他人のもの”。という。
これは 他人には興味の無いものかもしれないけれど、この埋め尽くされた“他人のもの”から、部屋の主である“私”がうかがい知れるものであったり。
内田樹さんだったかの発言で、電子書籍と実際の本の違いで、本棚を見ること・背表紙を見ることで、その人がどんな本を読んでいるかがわかる。…ように見せていると。その人となりを発信していると。他人に限らず、それは自分自身にも。)

私が死んだら、この部屋のモノもいずれ誰かが処分するだけ。

それか、私が生きてる過程で 飽きたら処分するだけのこと。

しかし、部屋の片付け中に懐かしい写真のアルバムが出てきて作業が止まってしまうように、本の処分過程で愛おしい思い出が出てきてしまって本を読み始め、捨てられずにそのまま残して共に生きたり。(笑)


捨てるか捨てないかは、興味・関心の赴くままに。
何かを残したいと思うのは、それに大切なものが、人に・物に、大切な想いが残ってるから。
大切な友人との思い出。小さい子どもの頃の思い出。親との思い出。ビデオに写真に残して。。。




ここまでは“他人のもの”を残すかのこと。
自分の何かを残したいだろうか。
死んでもなお。

たとえば権利的なものがあって、それがあれば大切な家族・身内を暫く衣食住に困らないようにしておくことができる。…なら、ま、ともかく。

どう考えても価値のない、自分のものを残しておく意味があるのだろうか。
……まぁ、翻ってこれは、自分自身にどのような価値意識を持っているかに繋がるのかもしれませんけど。(苦笑)

たとえば、自分の写真。単独写真。これは要らないよねぇ。(笑)
修学旅行とかでさ、「あんたの写真写ってるからあげるよ」なんて言われてもさ、誰か友達と写ってる写真なら嬉しいけど、自分だけと背景だけなんてつまんないよねぇ。
(ブログに旅に出たときの写真は載せてますが、それは、今生きてる私が懐かしむために持ってるだけなので。“私の死”を前提としたら不要なものですよね。なにより私がアップしてる写真に私が写ってないので。“私”が無いのが実に良い。(笑))

まぁ、でもね、理想は“死”自体をおかしなものにしてみたいですよね。


[リンク] : 2012-02-29 01:23:26サイト閉鎖に備えよう(林檎の木)

私のこのブログも、前身ブログから含めてかれこれ3年…かな? は、毎日更新してるんですけど、いつか終わるときは来るでしょう。
それは、私がウルトラ忙しくなったら毎日はともかく、週に1回とか、月1回とか。ペースを落としたりして更新できればいいですし。
再びアドレスが変わって、別のとこでブログを始めたりHPを持つこともあるかもしれません。

問題は 私が突如死んだ場合、このブログがどうなるかについて、だ。(どーん。)

芸能人とかのブログの場合は、きっとパスワードとかを会社・事務所・マネージャーが把握してる場合もあるのかな。(というかこういう場合、たとえばアメブロならサイバーエージェントがなんとかするんでしょうかね。)

一般人の場合、ほったらかしになるのかな。

あと、ツイッターも問題だよね。アカウント残りっぱなし。
だったら 生きてるうちに始末つけといたほうがいいんだろうか、って思いはするワケですよ。

けど、理想は死んでもブログが更新されてくようにしておきたいですよね。そしたら面白いと思うけど。
予約投稿とか出来るからさ、記事を100記事くらいストックしておいてさ、生きてるのか死んでるのかわからないようにしておく、ってどうよ。(←「どうよ。」じゃあねぃよ。w)

さすがにツイッターは『予約なう』とかできないから、「飽きたーアカウント消すねー」とか準備しておく必要があるな。w
mixiは私ゃ昨年アカウントをスパっと消したけど。


なにか、アーティストとか作家さんとか、死んでからでも何か作品が発表されたり(特に直後は未発表作品とか。数年経つと総集編とか。)、テレビで昔の映像が流れたりして、死んでる感じがしないんですよ。『今も、今を生きてる感じが。』
亡くなった当人にとっては(この言い方もおかしなものだな)、社会的に自分のものが“生き残され続けている”状態で。しかも(おそらく)当人の意思とは裏腹に。
(これが実は当人の意思で、作品や映像を生き残していくことすらもメディアとかの戦略だとしたらおそれおののきますけど。(苦笑))

そうまでして生き残していくことは、ただの、それこそ…ほんとうに今 生きている人の脆い未練・執着だと思うんですけどね。
“今”を生み出していけないんですから。


だから、私の理想としている、死んでも私の作品が更新され続けていく、って画期的だと思うんですけど☆w

ただ、ストックを小出しにしていくだけなんだけど、データに残しておいて時期がきたらポロポロ新しいのが出てくる。他人の目に触れないまま。(笑)
ま、そうしていく中で、このブログ(作品媒体)を見てる人が誰もいなくなったらそれはそれでいいんですけどね。たとえ更新され続けてたとしても。それこそがほんとうに“死”ぬコトだと思うので。

なんつーか、先々の予定が決まってる状態で死んでおきたいですよね。あからさまな悔いを他人に残す、というイヤラシサ。w 「約束したじゃない 何死んでるの?」って。……迷惑な話だ。(←笑…えません。これをきっと私が誰かにされたらすっごく悲しいクセにね。でも、誰かとの予定ではなく、単独で予定していたことが自動的に果たされていく としたらそれは残された者としてはどうなんだろうかな。表現者が視聴者・読者のリアクションを楽しみにしている・糧にしている とかならともかく。一切他人のリアクションに左右されない作品・作風だったら 別にどうだっていいものなのかしら。)

もしかしたら、このエントリの前日には私が死んでるかもしれないワケですから。
実際その人と会ってたりしない限り。そんなのは誰にも分からないもの。