藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“【アルボムッレ・スマナサーラ】 : 『的中する生き方』読了。”

アルボムッレ・スマナサーラ 著、『的中する生き方―役立つ初期仏教法話〈10〉 (サンガ新書)』を読みました。


“的中する生き方とは 道徳を実践した生き方のことです。”


ということで、“成功”についてを道徳に則して語られてあるのですが、ありがちな成功についての、お金がなんだ とかじゃなくて、
“幸せで成功にみちあふれた人生” と。人生に於いての成功。


とてもシンプルであると思います。 ですが、
『美味しい食べ物には毒がある。』というように、欲を肥大化させてきて健康を害するなどのように。
自我が真理や道徳を阻んでいるんですね。


学校で言う、道徳の授業が好きじゃないことも、“上”から言われる『これを守れ』というコトが、受け付けないことも、
『自分が言ったその 正しいことをやりもしないで人にばかり言うなんてどういうことだ!?』
っていうことから 道徳なんて守るに値しないもの、なんて思ったり、好きじゃなくなっていくのよねぇ。
確かにその通りなんだわ。



“子どもの自立心を妨げる育て方は要注意”の項で、(P.120)
自分の責任として 理性をはたらかせて学んでいく、というのは興味深い。

この部分は後半 第4章のソーナダンダとの対話にもリンクしているのかも。
お釈迦様が平和的な対話で、自ら気付かせていっているように。
“対話形式で相手に気付かせるのが大事”(P.172) ともありますからね。

なんせ、“押し付けられる”というイメージ。“守らなければならない”から嫌悪の対象でもある“道徳”というもの。



前のほうに、“倒産しない会社の社員は意識がちがう”という項がありましたけど(P.30)、

“「ブッダの言葉だから信じます」ではなく、「自分が理解して納得のいったことだから信じることにしたのだ」との考えにいたるようにすることなのです。(P.173)”

…とを併せて、自発的で且つ、良い対話が出来てるものが、道徳の良い連鎖を生むのかしら。


で、
“こころをきれいにすることが「道徳」”とありまして、『十悪(じゅうあく)』をしないことが、道徳的に生きる道に繋がっていくのだそうで。

“殺生”よりも、“邪見(じゃけん・間違った意見(見解)を持つこと)”が重いのだそうで、この“邪見”が『十悪』のおおもとだそうな。

物事を正しく見ることが出来ない、背景や証拠をちゃんと把握し、理性的に捉えることのできない、そんな状態である以上…“邪見”の問題さえ解決できれば、道徳的に生きる道は開かれるようなものだと。

…これねぇ、相手が“邪見”の渦中にいて、『対話』できないような状態だったらどう接するんだろうと考えてしまいましたが。
(P.178に“対話にならない場合もあります”と記してありましたけど。)
P.118に無差別事件を取り上げて書いてありましたけど、まぁ……、そこまでいかなくても、“邪見”の中にいて、暴力的な言動になってる相手にどうしても直面したらどうするんだろう。
危害をあたえてくるような相手だったらどうしても避ける方向になるのかな。
そうでなければ、相手の“瞋恚(しんに・根拠もなく、心で勝手に妄想する怒り)”をこちらが“正見”で察して、それこそ仏のような心で接するよりほかならないのでしょうか。


なんていうか、あまりにも道徳的ではない生き方をしている人が当たり前のように幅を利かせていたり、“十悪”を侵していても利益を得続けていたり。(P.33の4項目とか)
『マジメに生きる人が損をする。』って言葉、聞いたりしますからね。

けどこの本は『人生で成功する方法』。
上記に書いた“損”はおそらく金銭的なものや精神的な不利益なことにあたるけど、
仮にその不利益を被ったとしても、危機の際に『どうするべきか』を決めて対処できる、“智慧”のある人になれたら、問題は解決できる。“道徳”的に則していれば問題ないと。

物事は全て中立で、見たもの・体験したことからの…一切の経験からの感情に支配されることなく、ありのままをただ理性的に捉えて行動すれば“成功”の糸口は見えるのでしょうか。

ありのままを ただ、捉える・受け容れる って過去を過去のものとして別に考えないと難しいのかしら。
けどそこで『難しい』と思ってしまってることが“正見”を阻んでることになるのかなぁ。

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