藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“世界線”

同じ世界に住んでるのに 住んでる世界が違うように感じることが多々。

私が観測しているものも、感じているものも、誰かにとっては相容れないもの。

地域格差。金銭的な格差。年齢・世代の格差。e.t.c...
格差というか、隔絶というか。“差” とかじゃなく そもそも 知らない 。

どんな生活をして、何を常識として採用しているか。
何を楽しみとして、何を受け入れ難いものとしているか。

いつの間にか構築されてしまった 普段触れるもの の対象範囲以外のものに関しては、そもそも “知らない” 。
“わからない”。



そして “わからない” は “こわい” ものとしてたまに “敵” になる。
“未知” はこわい。 “わからない” は闇、暗い、黒いもの。
“わからない” は “敵” になる。攻撃対象になる。


そして “わからない” は “ワクワク” するものにもなる。
“未知” は “好奇心” を誘うものになる ………人もいる。
“わからない” は、“興味” 、 “関心” に結び付く。光にもなる。





人による。

年齢、地域、収入、性別 e.t.c...で 分類できるものはあるけれど、人による。
住んでる世界が違うものをどう捉えるかは。


体育会系で育った人、文科系で育った人、
唯物論が強い人、観念論が強い人、


演歌を聞く人、ロックを聞く人、J-POPを聞く人、ヴィジュアル系を聞く人、アニソンを聞く人、洋楽を聞く人、ジャズを聞く人、HIP HOPを聞く人、テクノを聞く人、クラシックを聞く人、クラブで踊るのが好きな人、

小説を読む人、エッセイを読む人、漫画を読む人、新聞を読む人、ブログを読む人、SNSで140文字は読む人、

ラジオを聞く人、テレビ(ドラマを見る人、ニュースを見る人、バラエティを見る人、アニメを見る人、ドキュメンタリーを見る人)を見る人、YouTubeを見る人、

……や、挙げだしたらキリが無いんだけど、そういった情報や娯楽を得る手段が人によって 決 ま っ て い て 、知らない人は知らないし、関心もない。
なにかが苛烈していれば人は集まったり、批判もしたり。


発信する側の方も、
テレビ、ラジオ、新聞の既存メディア側と、


ブログ、twitterFacebook、インスタで個人が発信して その個人も繋がってる人 …普段の観測範囲によって価値観も全然違う。

実名で住んでる地域を晒してSNSをしてる人もいれば、
匿名で、決まったH.N.で特定ユーザーに認知されていて 住所や職業の詳細を明かさず、プライベートに影響が出ないように活動してる人もいれば、
完全に個人のアカウントを持たずに捨て垢掲示板でのみ主張してる人もいる。



それぞれの常態を、普通を、
それぞれが楽しんでる普通を侵すことなく個人を尊重出来てるかどうか。

……というと、無理なのかな。
“未知” の他人への態度も、“関心” か “排他的” かで異なるもので。


知らないものを大事にしてみたり、知らないものに関心を寄せずに踏み躙ったり。
ま、それも個人の判断なのだけれど。

“私” は意識のある、自我を持った人間だと思っていても、他人をそうとは思えないこともあるからね。ゾンビみたいなもので。
目の前の 知 っ て る 他 人 すらも、言動や感情は推定の上の対岸の火事



今ある現実が自分の現実だと、
他人のそれが他人にとっての現実だと証明できる手立ては無い。


ただ どこかの世界の片隅で起きてる “現象” に、観測者の “私” が反応しているだけ。
反応して、反応している だけ。



あれは良いものだ。
あれは悪いものだ。
あれは楽しそうだ。

じゃあ……○○しよう。



人それぞれが体感してる、多層的なそれぞれの世界が重なり合うことは多分ない。
それぞれの持ってる世界線の円が重なる部分が、共振なり摩擦なり起こし続けている。

正円か楕円か、歪な十三角形のように “私” を中心に置いた世界の部分が他人の一部と重なったり。
ときに自分を中心から外して異なる視座を手にしてみたり。



知らない世界とどう対峙しようか。
そもそも知らない世界だったのに どう知ったのか。
寄せてみたり流してみたりしながら。