藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“『西島大介のひらめき☆マンガ学校 マンガ家にはなれない。かけがえのない誰かだけが、君をマンガ家にする。』読了。”

西島大介のひらめき☆マンガ学校 マンガ家にはなれない。かけがえのない誰かだけが、君をマンガ家にする。』を読みました。

えぇ、ちゃんと発売日前に予約して、とっくに読みましたけどね。


内容はまさかの“コミュニケーション論”!!(?)


催される順番から恐ろしいw
先に生徒同士で「この人はイケるかも。この人はダメだ。」みたいのを決める。
けど、それは既存の漫画家の枠組み内でなれるかどうか ってコトを測ってたりしてる。
ってことが一つ。

そのあとに多種さまざまな編集さんに、それぞれの課題を為した上での作品を見てもらう。と。

たしかにねー、出版社どころか、編集さん個人によっても感性なんて違うんですから、
「面白い漫画に“絶対評価”は“無い”!」
は、ごもっとも!

第2章では“編集さんを評すること”以外にも、“媒体を意識する”。とか“自分のスタイルを変える”ことが重要だとも。
描けるものが決まってるんだからそれは一つ仕方ない自分の持ち味だとして、でもその最低限の中で何が向いてるかと、「こっちの方向性だったらイケると思うよ」という第1章の『格付けしあう』を経ての作用で。

所謂、『描きたいものと求められてるものが違う』っていうコトなんでしょうけど、それが先ず合うかどうかなんでしょうね。

で、
こっからが問題で、じゃあ“誰と”という、本書の表題でもある“君を”漫画家にする“かけがいのない誰か”とは誰なのか。と。

生徒さんたちは講師2人の用意してくれた場にて、知り合うことの出来た方々を前提にイモヅル的に他の人に知り合ったりしてるけど、これ一般レベルでどこまで落とし込んでいけるんでしょうかと。


前述しました通り、同じ出版社内でも、同じ雑誌編集部内でも、編集さん個人によっての「面白い」は違う。
地方志望者が東京の各社の出版社の各編集部の各編集者さんを訪ねて当たりを探すのだろうか。

商業的に自分の作品が“発見されて”広がっていく。誰かのものになる(そしてさらに金銭的な価値が発生する)、…っていう。それの最初のキッカケが受け身で広がるワケがない。
(木村勇さんの話でも、クイックジャパンに送ったけど、編集さんは会いたかった、ってありましたし。)
この“最初”をどうコネクトしていくのか。

そしてネット発である場合、単発で燃え上がって終わる可能性も一つあるので、それが確実に、堅実なものになるのか、っていう疑問も。
2学期が終わった後の話にもありましたけど、雑誌に掲載されてそれで終わりなのか。

たしかに1学期や本書冒頭でもあったように、
「漫画家だと名乗ってしまえばいい」
「“児ポ法に関連する表現規制に反対”とか声明を上げればいい」
とかいうことで漫画家だとしてしまえばいいのかもしれないけど、それで済むワケがあるまいてwwww

いわゆる定番の『コミックスが出たら漫画家だ』とも言うのもあるんでしょうけど、

ひらめき☆マンガ学校ですからそんな単純な結論で終わらないでしょう。


私の2学期までを読み終えての疑問は2つ。

1、どう“かけがえのない誰か”に出合うか。
本書の帯にある、ふみふみこさんは本書内のリュウ編集さんと出合ったからだし、谷川ニコさんはおそらく編集は変わらずマンガ学校の手法を取り入れただけでしょうし。
というか、帯に最速デビューしたs=novさんの名前載せてもよろしかろうにそれを記載してないのは何故か? 漫画家の成功として定義してないんですか?とも。

いずれにせよ、どうやって“誰か”に繋がっていくのか。2学期以降ではツイッターで個目さんはアフタヌーンに引っかかったコトを知りましたけど、それも経緯とか。(そして絵は関係ないと言いながら、個目さんは絵がうまいしなぁ…と思ってしまうもので。……まぁそれが“個目さんは絵がうまいからアフタに合ってた”ってだけかもしれませんが。)

2、漫画家として生き延びること
これが3学期に繋がっていくことなんでしょうけど。
まぁ…そもそも生き延びることが正しいのか? って感じでもあるんですけどw 連載無理矢理引き伸ばす的なw



なんにせよ、『ひらめき☆マンガ学校』はまだ終わりじゃあ無いみたいですので、今後にも期待しつつ。


西島大介のひらめき☆マンガ学校 マンガ家にはなれない。かけがえのない誰かだけが、君をマンガ家にする。 (講談社BOX)西島大介のひらめき☆マンガ学校 マンガ家にはなれない。かけがえのない誰かだけが、君をマンガ家にする。 (講談社BOX)
(2012/12/18)
西島 大介、さやわか 他

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