藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“【メモ】条件や都合の調整。”

2013年6月8日付けの ほぼ日 今日のダーリンより、
(以下、引用)

 ・「ものごと」をつくっているときに、
 よく陥ってしまいがちなのは、
 「やりくり」が仕事だ、と思いこんでしまうことだ。

 前はこうだったから、次はこういうことだろう。
 ここは、こういう意見があったから、こうしよう。
 これをこうすると、少し節約ができる。
 おっと、あの人がこれだと怒るかもしれないよ。
 これ、じゃまになりそうだなぁ
 ‥‥という具合に、ああでもないこうでもないと、
 条件やら都合やらが、山ほどあるわけです。
 それを「やりくり」するのは、なかなか大変ですよ。
 あちらを立てたら、こちらは立たないし、
 帯に短くてもたすきには長いし、
 時間を何日かけても、何人で考えてても、
 なかなか「やりくり」は困難だし、完成しない。

 だけどそれなのに、「やりくり」は、
 価値やら魅力やらをつくるわけじゃないんだよね。
 「それいいね!」って人がよろこんでくれるのは、
 価値や魅力があるからなんだ。
 「いやぁ、よくやりくりができているから、いいね」
 ということは、ほとんどないと思ったほうがいい。
 
 条件や都合の調整がテーマみたいになってるデザインは、
 つまり、価値を増やしてないんだ。 
 それは、「あちらを立てれば、こちらが立たず」の、
 両方を立てなくするようなことなんだ。
 コピーだって、企画書だって、商品だって、
 サービスだって、人間関係だって、なんだって同じ。
 「いいねっ」「おもしろいね」「すてき」
 という胸の高鳴りと共に発せられるようなことばが、
 つい湧いて出てくるようなことが、価値なんだよね。
 
 やっぱり、「すてき」ってことが、稼いでくれるんだ。
 「やりくり」の仕事も、もちろんあるんだけど、
 「やりくり」そのものが価値だと思ったり、
 仕事なんだと思わないほうがいいよね。
 あちこち見渡してごらんよ、やりくりの結果が、
 街に(そして倉庫に)あふれ返っているから。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくの仕事は、立派なやりくりをぐちゃぐちゃにすること。

(以上、引用)
(文中、文字に色付けしたのは無臼です。)


基本的な人間関係というものを、『“条件”や“都合”の補完』としか思えてない私としては ちょっと響く言葉だったので。
『条件や都合』にしか価値を見出してない。『成立』することだけが全てになってしまってる っていう。


対称的な表現として、
胸の高鳴りと共に発せられるようなことばが、  つい湧いて出てくるようなことが、価値なんだよね。

ってありますけど、私が色々感情をこじらせちゃってるからか、あまり感情を大切なものだと思ってないんですよ。
感情っていうのは『(物事や関係を)成立させるためにジャマなもの』もしくは『“成立”を優先に置いて利用するのが感情』 っていうような。


ほんとうは人の感情をうつようなもの・ことが重要なんでしょうけど、それがあまりにも個人の域に留まりすぎてそこから出ない。あまりにもビジネス的な薄い感情のやりとりでしかない。

“うまくやりくりした結果”だけ。

そう表層だけ。
湧き上がる感情の源泉を見つけていない。
ただ間違いやすいのが、湧き上がってきた感情が、“胸の高鳴りと共に発せられるようなことば”が、
“うまくやりくりできた”ことの達成感による高鳴りでは、全くの見当違いになってしまうのだけど。