藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“【漫画を描くのは】『はじマン 第1回』 感想【めんどくさい。】”

[外部リンク] : 『はじマン チャレンジ!はじめてのマンガ:第1回』(となりのヤングジャンプ)

「カラオケでさ 歌ってるじゃん みんな」
という ほったゆみ先生の発言がキッカケでスタートした、
“マンガ制作にあまり馴染み深くない人にマンガを描いてもらおう”企画。

でもね、かつてマンガ描いてきた私からすると、めんどくさいし、苦痛でもあるのよ。

カラオケが楽しいのは一つに感情を出せること…出しやすいこと。
だって声出すやん、フツーに。だって聞き馴染みのあるメロディーにその声を乗せるだけやん。

うまくなりたいって思うこと、あの歌手みたいに歌いたいって思うことがあるから。
他人が聞いたらそら下手かもしれなくても、陶酔できるし。
あの歌手みたいになりたい・憧れの人みたいになりたい っていう気持ちと重ねることもできるし。

っていうかぶっちゃけ声上げるだけでかなりストレス発散にもなるし。


けどマンガはそうもいかず。
つか、絵を描きたいと思うことはあっても、はじマンに触れられてるように、『コマを割ったマンガ』を描きたい って思う最初の動機ってなんなんでしょうね。

どうして描きたいって思ったんだろうかね。私も。

あと、人に見せる ってことも。

歌うみたいに…とくにカラオケではその場で人に聞いてもらうことが大半だろうし。(ヒトカラはさておき。)
歌手でも音源制作は除いて(まぁ制作陣がともにいるので誰かしら聞くことにはなるんですが)、基本 人に聞いてもらうことが喜びで、ライブが好きだって歌手は当然殆どでしょうし。(音源制作だけが好きな人もいますが。)

作画をライブビューイングするワケじゃないやんね。
…最近ではユースト使う漫画家さんもたまにみえますが。
……ん、なんかおかしなコト言ってるかな、つまり制作過程での人の関わり方が違うとゆーか。

いえね、私が最初にコマを割ったマンガを描いたあと、それって人に見てもらったっけか? って思いまして。
私そこ満たしてないと思うのよ。
や、でも実際私は描いてたワケだから なにかしら理由があってやってたんだろうけど…。それは他人が絡む理由じゃあなくてさ。
自己満足で描いてたんだろうけど、なにに対して私は満足してたのかと…。



カラオケの代替としてマンガを描くことが当て嵌まりにくいのも、どうしても時間がかかることとか。
楽しいのかな? っていう。
趣味とかさ、友人と遊ぶ流れでさ、「マンガ描こうぜ!」ってなりにくくない?


『評価ポイント』である、『おもしろさ』や、『うまさ』の基準がわからなくなって、他人からの『かくあるべきmust』にマンガを描く自由が私は考えられなくなってしまったワケでー。
カラオケで歌ってても『うまいねー』とか『楽しいわー』とか言われたいやん。そうじゃなくても(ヒトカラでも)声出してるだけでスッキリするやん。
マンガを描くという、『“出力”の行為』だけをすることによってスッキリするのかな。
誰かに見てもらわなくても。
描くという、“頭の中で規格化されたものをただアウトプットするだけ”の行為にどれだけの感情を込めて、それを誰もが見てくれなかったとしても。作画経過も、出来上がった作品を見てもらわなかったとしても。

ある意味、歌 っていうか声を出すことによって、言語化できてなくても感情は出せるけど、マンガはそうはいかないんじゃないかなと。言語化…解釈が難儀になる表現(紙にシャシャーっと描くだけとか)だと“アート(笑)”になってしまうんじゃないか って思ったり。




あー、繰り返しになりますが 早い話が、
他人から色々描いたものを批判されまくって腐ってる私みたいな人が、誰にも見てもらえない(評価されない)状態で一人で描くのが果たして楽しいのか? ってのが疑問なんです。あー実に腐ってるね。w


第1回では描かれてないんですけど、評価の是非ではなく(55歳の女性が「ウケてる」とありましたけど)、描いたこと自体が描いた人は楽しかったのか を第2回では聞いてほしいな って思いました。


[ブログ内(おそらく)関連リンク]:『“『西島大介のひらめき☆マンガ学校 マンガを描くのではない。そこにある何かを、そっとマンガと呼んであげればいい。』読了。”』