藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“拙稿 -閑話休題・拙稿- #2”

途中です。
私の今の価値観は 要 ら な い ので、それをどうにかしている最中です。

前にもまとめに似たエントリは書きましたけど、今回もそれです。

もうねぇ、今の生き方が合わないというか、違和感を感じまくりというかですね。
無言の圧力とでも言うような、既定の要求やレールみたいなものに対しての疑問がハンパ無いですよね。

ただ、一昨日のサイバラさんの書籍などに触れたエントリでも書きましたけど、結局そういうものに対してわざわざ反発心を抱いてるというコトは逆にそれを意識してるがゆえ反発してしまうっていうことでもあるので……既存の価値観に縛られてるからこそ意識してしまっている。だからこそそれを手放したいんですよね。

全てに対してフラットというか、ニュートラルな状態にしたいですよね。
そしたらそれぞれの価値観に関して、『我、関せず』で居られますからね。それは他人に対して無関心でいる、というコトとは違う意味でね。双方の価値観を尊重しつつも、否定せずで在れるような。
ただ、自分というものはそれらに振り回されないように。

もともとこのシリーズの最初のほうに、「なにが好きかわからない」って書きましたし、買いたいものは?というエントリで「人の心」だと、「なにが欲しいかという動機の心の動き」についての疑問も書きましたけどね。

人は人の心を染めたがる。
条件下での肯定であったり、同意の繰り返しであったり。狭い箱庭を世界の全てだと勘違いさせたがったり。
先日見た番組で美輪さんが「人は一人ひとりが独裁者の部分があると思うのよ」と言われてましたけど。そうね。

その排他的政権を誰もが下して選別する。

人の役に立つような人になりなさい? 遊びのときに呼んでもらえるような人になりなさい?
そうね。そうしたら嬉しいでしょうね。
……そのために生きるのですか? おいおい必死だね。その独裁国家に入国するのに。
その独裁をさらに統治するために。


もう、なんていうか面倒くさいですよね。
そういうね、生きるエネルギー自体もさ、誰もが持つ死への恐怖みたいなものからなんでしょ。
なんで同じフィールドの力勝負をしなければいけないんでしょうかね。
違う競技での力の発揮をすればそれぞれでメダル貰えるはずやのに、生きるという競技が1個しか無いみたいな感じやんね。それはあまりに狭義の認識だものね。


……あぁ、だからまぁ、そういうのに縛られないように・意識しないようにしたいんやけどね。
もう、こう書いてるコト自体がただの反発だもの。

実に苦しいですよ、今まで私ゃそういう……なんていうんですか、既存の力に屈してばかりいたものですから、ようやく不満が小さいながらも爆発し始めたばかりですからね。

ムックの“遺書”という楽曲の詞にですね、
『マスメディアはたやすく僕たちの 悲しみを情報に置き換える』
というフレーズがあるんですけど、実際、他人にしてみたら人の苦しみなんか本質的に他人事ですからね。

その、悲しみというのも、誰にとって、どういう事象が発生したら、それは悲しい出来事なのか …っていうのは断定できないですよね。
悲しみにしたがる情報の操作もありますよね。それは一人の人の心自体にも自然に処理されていきますよね。

共感する力は重要ではありますよ。それは確かに。でも共感を強要するのも上記に書いたようにそれはただの同調圧力とも言えるしで。
で、当人にとっての悲しみは当分しばらく続くものではあるけど、非当事者にとってはその悲しみは共感していたとしてもある程度の短い時間で割とすぐに癒える。
これをわざわざ非当事者が嘆くことは難しい。

東日本大震災を簡単に忘れてしまうことが悲しいということもあれば、いつまでも被災者を“被災者”にしてしまいたがる。…という両方があるよね。)


程度の差こそあれ、当人にとっての悲しい記憶を、上記のムックの歌詞を逆に使って言うなれば、ただの情報にしたいですよね。自分にとってのその悲しみを。
当事者意識はありながらも(それは単に他人事にして無関心や無責任を促すのを阻むための防波堤的な意味で。)、それに縛られないような。過去の苦い・辛い体験を、“遭った”ことから、ただ“あった”(平仮名表記にすることで出来事に意味を持たせない)ことにする。

何度か書いてるかもしれないけど、事実はただの事実に過ぎなくて、それに対しての解釈や意味付けは勝手に自分が判断している。っていう。





♪愛してるーからーわがままになってるー(皮肉)