藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“幸せの恐怖。不幸の願望。”

なんとなく、これ、私だけじゃ無いんじゃね?

と思ったので。
(それこそ劣等感からの安心なのかもしれないけど。)

破滅的願望があるとか過去エントリにも書いたかもしれないけど、成長とか進化とかよりも、私以外の誰かの落ちぶれてるさまを見て安心していく。そんな傾向があるような気がしたので。

もっと良いことが起こればいいのに、なんかそれ自体に不安がある というか。
良いことがあったら悪いことがある。だからほんとうに幸せになることが怖い。とか。

荒木飛呂彦先生の読み切りに、『幸福の絶頂のときに罰を与える』かなんかの内容があったと思うけど(『岸辺露伴は動かない 〜エピソード16:懺悔室〜』かな)、

『幸せの極致になってはならない』というような そういうのを抱えてるような気がしたので。



たとえば私の場合だと、これまで特に評価されたことも無かったし、つか色々精神的にボコボコにされるような出来事も多かったので、おそらくそれ由来で自己評価が低くて。
たまに褒められても『それはあなたの満足に至ったからでしょう?』という感じで、為したことよりも、“為したことによる他者からの評価を与えられて、私が私の評価点をあげられる”と。

だから特に何もしてないのになんか嬉しいことが起きたりすると(もしかしたら私が何か相手にとって良いことしてたのかもしれないけど。別にそこまでの出来事だと思ってなかったり・忘れてたりしてて気に留めてないとか あるのかもしれないけど。)、すっごく不安になるんですよ。

『なんでこんな良いことがあるの? ドッキリなの? 何か騙そうとしてる? 罠に陥れようとしてる?』とかね。
ほんとうはすっごく嬉しいのに、どこか不安感があるの。

もちろん、もっと良いことがあればいい とは思ってる。けど この不安も事実ある。

だから安心感が、自分よりも不幸な人を見ることであったりもする。その傾向は否めない。

無自覚だったけど、このブログのニュースカテゴリで、自殺関係の話題を連続で取り上げてることに全く自覚してなかったこととかね。
同じような不安を抱えてることは事実ではあるんだけど、『向こう側』に至ってしまった人と、そうならなかった人になんの違いがあるのかと。
日本人的気質かと言ってしまえばそれも逃げの言葉かもしれないけど、成長するよりも引き摺り下ろすことのほうに心血を注ぐような。
『痛みを分かち合う』などという 方便を使って。


もしかしたら幸せとかの価値観を限定的に捉えてしまってるのかもしれない。不幸のほうが分かりやすいから。
その不幸は、みんな不幸で安心するから。
誰かと一緒にいい夢見たり、成長したりするんじゃなくて、一緒に泥沼に使ってるほうがみんな一緒で良いから。
不幸の対として、成長と書くのもおかしな話ですけど。それこそ得るものが何もなければ意味が無い。…というコトになってしまうんでしょうか。棚からぼた餅みたいな幸福をどこか望んでしまうのに、しっぺ返しがあるんじゃないかとか。得るからには、何かを与えないと不義理である。とか。)

不幸のほうが幸せだと矛盾した言葉が実際に成立してしまうようなね。


こう、矛盾した意識でいると感情が混線するよね。
あとは幸せそうな人への嫉妬とか。その価値観を見出してることに対しての嫉妬とかもね。

だからここで 何事にも囚われないような、根源的に自分を肯定して 良いことなら良いことだと、嬉しいことを素直に受け留めることを積み重ねていけたらいいのかな と。
何故、幸せが不安なのか、みんな不幸だと安心できるのかというコトをあぶり出していけたらいいのかな と。