藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“理性的な脳。複雑怪奇な心。”

私は専門的な学校を出て勉強しているワケでは無いので、この文章も感覚次第になってしまってどうにも手探りで書いてる感は拭えませんが。そこはご了承頂くとして。

カウンセリングや、人の深いところの悩みについて、心配で訊くときに、表層は笑顔で受け答えていても、内面は濁ったまま というのは聞く話で。
感覚器官を主幹する脳がそのように指示していれば、はたらくもの。
だから人は『心が弱ってるとき』を 上 手 に 言 語 で 説 明 で き て し ま う 。

ほんとうは、そんな容易く言葉で言えるほど、単純な状態では無いというのに。

どれだけの今の不安、今後の不安。社会や自分を取り巻く環境へのどうしようもない思い・厭世観
そういうのを抱えて、ホントはすごく吐き出したい思いがあるはずなのに、『強く生きていかなくてはならない』と思ってしまってる。

人間という生き物はビジネスツールだ。(皮肉)
如何に、効率的に生産性を上げ、利益を上げ、効率よく、合理的に物事を進めていくことができるか。
前日のエントリにも書いたけど、価値観の統制はここにつながる。
必要なのは重要な“駒”である。
あなたにとって、都合のいい、合致する機能を携えた人間であれば特に構わない。


色々と、心の深層などを描いた本を古いものでも読んでいると、今も昔も悩んでいることは何も変わらないと知ることがある。『それでも人生にイエスと言う』を読んだときにも思ったことだけど。

これだけ機械が発達し、昔に比べたら色々と便利になった時代だと言うのに、悩む物事の根源は同じ。

何が満たされないの、
何が不満なの、
何をあなたに差し上げたら良いというの?


けど、どれもその心の空虚を埋めるものには相当しない。
過去エントリでも書いたけど、“外”のものではなんの理由にもならない。

欲しいものはある。
お金や時間があればある程度の望みは叶うと思う。

癒しの言葉や、誰かからの励ましの言葉を求めれば、かまってちゃん的に発すれば(?)、もしかしたら手に入るかもしれないね。
別に、本心からその言葉を発して貰ってるワケでは無く、『五月蝿ぇな、とりあえず励ましとけばいーか』というような、仕方なしの言葉というものがうかがい知れたとしても。ただ、その言葉自体で嬉しいのかもしれないね。

お金や、単純に 欲しいものを得ることが出来たときのように。

……けど、それは所詮その場だけのもの。
その場は手に入ったかもしれないけれど、根源的な、本質的な空虚を埋めるカタチにはならない。

そもそも それまでの個人の人生の中において、満たされなかった心の穴が、そんな安易に埋めてしまえるものなんでしょうかね。
たとえば、前向きな言動が・思考が、前向きな心を作り上げることに繋がるのかというと……や、出来るかもしれないけれど、そんな一朝一夕のものではない、単純なものでは無いのではないでしょうか。

いつまでも過去の心的外傷を引きずって、それに相当するであろうものを埋めて、そして今度はそれが無くなることを恐れて、無くしてはまた感情の谷底に落ちて。また手に入れて。
……そう、『手に入れて』だ。
上に書いたように、“外”のものでは何も埋まらないというのに。


まー、特に私のような、厭世観たっぷり☆で、ニヒリスティックで、ペシミスティックで、昨日のエントリにも書いたように、常識や正義という道徳的なものすらもどこかこの世界ではアテにならないものだ と考えてるようなヤツにですね、何が通じるかというワケですよ☆

で、ここに書いたようなニヒリズム的なそれは、思考の領域で。
道徳観念すらも、それは脳のほうで。
道徳行為というもの…善行(常識・正義)というのは、“意識”してそれを行ったらり、ヤンキー的にわざわざ反したりするもの。脳のほうに起因すると思う。

(そしてこのへんの文章に、わざわざ“☆”とか入れたり、皮肉めいた言い回しして言語の在り方を宙に浮かせてるような表現にしてたりね。)

解りやすい説明かどうか分かりませんが、『何故、人を殺してはいけないか?』に対して、『法律で罰せられているから』とか『悲しむ人がいるから』とか説いたところで、“理解”は出来ても“伝わる”かどうかは分からないものでね。
じゃあ『戦時中ならいいのですね』とかね。『仕方の無い理由があるのなら良いのですね』とかね。

それをしない理由としては“メリット”や“デメリット”の天秤があるだけで。

(種族を別にした『殺す』ということ、人間と動物についての区別はここでは問いから外します。また宗教的な理由もここでは外します。)
(というか本項の主旨と違うので、『殺しをしてはいけない理由』についての説明の是非はここでは書きません。)


けど、その“メリット”“デメリット”があっても、いざ、殺しなり自殺なりあると、それは悲しい。
大病による苦しい生活が、死によって解放されることで、死自体は悲しいけれど、病気からの解放による安堵はあるのかな …って言える場合もあったり。
アタマがキチ○イな人が人を殺めた場合、キチ○イな人はその精神状態に苦しんでいたから(←?)周りの人もそれに苦しんでいたら、その人が死ねば安堵?
その精神状態は先天的なのか後天的なのか。後天的に、外因的な精神不安を引き起こすそのものが原因だとしたら、いったい何を咎めよう。

そして後天的であったとして、そうなってしまったときの、もともとの“あなた自身そのもの”に原因があったのだろうか?
…とするとき、自分自身の心をどう埋めようか。

心を満たす理由を、理性的な文言で此処に記すことが どうしたら人の心に触れようか。



↓覚え書き的な意味で。関連するかはともかく。
[リンク] : 『隙間風』『人殺し』(特殊清掃「戦う男たち」)