藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“あなたの常識は役に立たない・あなたの正義は役に立たない・あなたの個性は役に立たない。”

あなたの常識は役に立たない。
あなたの正義は役に立たない。
あなたの個性は役に立たない。


価値観は時代や、環境・人間関係によって異なり、移り変わる。
一定の集団の中での“一番 上に立つ人”がそのルールを課す。

それはその世界の中で生きていくためには当然のこと。その環境の中で生きていくためには。
仮に、自分や、集団の外の人が黒と言っても、自身が所属してる集団のトップが白と言えば白になる。

上に立つものが“絶対”だ。

だからその人が常識的に逸脱していようとも・人格が明らかに破綻していようとも、それは『通る』。
過去の栄光がある・過去の実績がある。(仮に今それが異なるものであったとしても。)
金がある・権力がある・暴力的な力がある。
…あとはメディアスクラム?煽動? ……よく知りませんが。

同じ“罪”でも異なる印象、異なる“罰”の重さ。



あなたの善意は役に立たない。ありがた迷惑。
「あなたのため」という言葉は、自分のためにかけているだけの言葉でしょう。「あなたのために」しているという行為に酔ってるだけなのよ。

また、正義が 一定の上位者単独では無くて、勝ち馬に乗るのかサイレントマジョリティなのか、集団で正義を作り出す場合もある。
こういうときも厄介だ。
自分自身の善意を省みることなく、周りに流されノリで合わせて正義や常識を押し付ける。


その、
常識や、
正義というものは、必ずそのルールを通らないと生きていけない道なのだろうか。

それとも、そのルールから外れて生きていけてる人は、参考にしてはいけないのだろうか。
他人の たまたまの個性を参考にしてはいけないのですね。
だから価値観を統制して、ルールを敷いて、同じようなものがたくさん量産できるよう体制を整えたいのでしょうか。
けど、それも「あなたのため」なのでしょう。
この 一定の集団下の世界で生きていくためには。
と?



だからこそ、私は私の正義(善意)や、常識を疑う。
吉本隆明さんの言葉に
「いいことをしていると自分が 思っているときには、だいたい悪いことをしていると思うとちょうどいいんじゃないでしょうか」
というのもありますからね。


しかしながら ここからが問題で。
だから自分自身が生きていくための『正義』や『常識』みたいなものが空虚というか不安定なのだ。
価値観が他人ありきで自分が無い と前にも書いたけど。
他人が課したルールの中であれば、ある意味安全で(心の奥底ではやや別の起因で不安で満たされているのに)。

そして他者のルールに倣ってきたからこそ、個性が中途半端。個性が・特性が自分自身で受け容れられないし、他人にも受け容れられない。



先日、友人が、
「絵の描き方について、誰かから習う必要なんて無い。それこそ個性をなくす」
と言ってたような。
けどこれは目標・目的の違いというか、自分だけで描いてるだけならともかく、誰かに評価され・ゆくゆくは収入を得ようという目標なら受け容れられるために勉強しなくてはいけない。とか。
(これは山田玲司さんの漫画にもあったけどね。)

どれだけ難解で理解不能であっても、それを良い個性と捉えて肯定的に発展できていければ良いと思うんだけどね。それは別に絵じゃなく、人間自身の本質の部分で。気質の部分で。



また、親子間の教育の影響。
それがどれだけ破綻した人格を持った人間だとしても、屈折していたとしても、脆弱だったとしても、その人間が子を持った時点で、育てざるをえない状況になるでしょう。(そうじゃない場合もありますけど)

以前、何かの討論番組かで、経済格差を論じている中で、“格差の世襲制”について上げられていたことがありました。 親の経済力…経済力の無い親の影響がそのままダイレクトに子どもに反映されて、学校に通えない・塾に通えないというコトが出てくるという。
逆に、経済力のあるトコは、私立に通わせたりとか、色々その他諸々、子どもの頃から親の計らいで色々体験させて見識を増やしてあげることができるでしょう。勉学を問わず。
DQNの子はDQNになるとかね。

で、そんなのは学校や社会に出ればごった煮で。
さまざまな経済背景や、人格形成の背景となったものを見えないところで背負い(言い方が重いな…。『見えないところで抱えて』?、『分かっているけど見ないようにして』? ……まぁ、そんなニュアンスで。)、
その中で構築されてきたであろう価値観が衝突するのは当たり前で。で、衝突したときに、どこに落としどころを持っていくのか。経済が倫理・道徳と結びついているというのに。

いや、まぁ、当たり前なんですけどね。
ただ、戦争終わったあとに価値観がまるっと変わった とはいえ、それは(たぶん)国民全般が変わったからいいんですよ。(うーん、でもこの場合、その時代のときに要職に就いていた人は一般の人よりも混乱したのかなぁ。)
今みたいに“平等や公平を謳ってる(笑)”中で、一部の立場の人の価値観が肯定されて そうでないものは排斥されたりとか。論調が強ければいいとか、上に書いたような権力や経済力・暴力がものを言う、っていう。
……それが 受 け 継 が れ て い く っていうコトがね。
それこそ士農工商と変わらないとも言えるんじゃない? つか、武家社会も農民社会もあるのに、同じコミュニティ間に武家も農家もあるんだから それは窮屈であるし、圧力もあるし。

で、公平とか、夢で溢れた世界(笑) …というのは、テレビとかを通じて共通に得ていって。

ニュースとワイドショーが同居した番組で、孤独死や自殺のニュースが流れたあとで、子どもの・JSのファッションショーとか、飽食な話題、どこかのジュエリーを纏った芸能人のニュース(宝石のきらびやかさや、美しさに感動するんじゃなく、金額でしかリアクションできないとかな)、とかね。

(……なんかこの文面書いててアホらしくなってきたな。w)





常識や正義という数の圧制、“数字を持つものの圧制”で感性まで強いることなく、
ただ 心が、
それで良いのだと素直に感じることが出来ればいいのだけど。

(文末がやや投げやり気味なのは そのごった煮の世界の過干渉と無関心が書いててバカバカしくなってきたから。というコトにしておけばいいじゃないか。)