藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第2回 うらみから離れる』を見た。”

100分de名著 ブッダ真理のことば 
第2回『うらみから離れる』を見ました。


MC 堀尾 正明
アシスタント 瀧口 友里奈

講師 佐々木 閑


以下、テキスト化↓


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“なぜ「うらみ」を抱くのか”

佐々木:「前回は、私たちの苦しみには大きく2種類ある と話をしました。 一つは例えば、年をとる あるいは病気になる などの、避け難い大きな苦しみで。前回はその話をしたんですが、今回はもう一つの苦しみ、それは 私たちの心が作り出す・私たち自身の人工的な苦しみ というようなものを 色々考えていきたいと思っています。
    で、その一つのとっかかりとしまして 代表的な人間の苦しみを生み出すもと、それが『うらみ』ですね。その『うらみ』について色々考えていきたいと思います。」


ブッダのお弟子さんがつくったといわれる 物語から紹介。

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ブッダの親族である、シャカ族と、コーリヤ族が互いを滅ぼしかねないほどの激しい争いをしていました。そこへブッダが現われ尋ねます。
ブッダ:「これはなんの争いですか?」
将軍も副将軍も答えられませんでした。ようやく奴隷に問いただして、初めて水の利権の争いだとわかったのです。

ブッダ:「大王よ、水にどれほどの価値があるか」
大王:「わずかです」
ブッダ:「部族にどれほどの価値があるか」
大王:「はかりしれません」
ブッダ:「わずかな水のために はかりしれない部族を滅ぼすことは ふさわしくありません」

この言葉を聞き、シャカ族とコーリヤ族の争いは鎮まっていったのです。


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瀧口:「友達とのケンカでも『なんでケンカしたんだっけ』っていうようなケンカもよくありますね。」
佐々木:「小さな原因であったのに、それが次第に増幅されていって 最後には何のために戦っているのかも分からなくなってしまう。そういうことありますね。  これこそ 我々が自分自身で生み出す苦しみの代表的な例ですね。
    で、今のこの話は ブッダ真理のことば の197番の詩なんですね。それについて説明しましょう。」


“うらみを抱く人たちの中で
 私はうらみを抱くことなく
 安楽に生きよう
 うらみを抱く人たちの中で
 うらみを抱くことなく
 暮らしていこう”
     真理のことば 一九七

佐々木:「これは仏教の教え ブッダの教えに従って生きていこう。そういう強い決意を表しています。『うらみを抱く人たち』というのは 一体誰か。 何か特定の悪い人なのか そうでは無くて、私たちは人間として生まれれば 全員 心の中に煩悩を持っています。うらみもあれば欲望もある。 つまりこれ(『うらみを抱く人たち』)は 普通の人たちの中で暮らす ということです。しかしその中で 『私はうらみを抱くことなく』これはつまり自分で決意して、そういう気持ちを起こさないようにして生きていこう というわけで それはとても強い決意を表しています。」

佐々木:「じゃあその結果 何が起こるのかというと、『安楽に生きよう』。  つまり自分の心の煩悩を消すことで、苦が消滅していくわけです。ですから本当の安楽 本当の幸せというものを求める、これが 私の道だ ということを説いてるわけなんですね。」

堀尾:「うーん… ただ仰るとおりですけど、たとえばパンを食べてて、誰かにパンを取られたら あ゛ーーっ!! ってその 取ったヤツに 『なんで、オレお腹空いてるのに』とうらみ持ちますよね。」
佐々木:「そうですね。」
堀尾:「だから うらみを抱かないで安楽に生きる って 相当難しいことなんですよね」

佐々木:「その場合、一番の原因は、『パンが自分のものだ』と思ってることですね。」
堀尾:「だって 食べてたんだもん。今。」

佐々木:「そのパンを たとえば 誰かが下さったパンで、たまたまそれを私は手に入れて食べているだけだ。 と思うのと、これは私が稼いだ金で買ったパンだから誰にも渡さない 私だけの物だと 思ってるのでは、全然そのときの気持ちが違ってきますね。 ですからそういった うらみを起こさない 煩悩を起こさないような状況に、自分の環境を整えていく ということも 仏教が考える大切な一つのポイントなんですね。



佐々木:「それでこの うらみを捨てる ということですが、えーまぁ、これはずいぶん昔の教えですけども、この教えに基づいた 有名な出来事があったんです。1951年のサンフランシスコ講和会議 はご存知ですか?」

堀尾:「はい。」
瀧口:「第2次世界大戦のあとに、日本が連合各国と平和条約を結んだ という―――…」

佐々木:「そうですね。そのときに この 真理のことばを用いた、とても重要な演説が行われたんです。それをちょっとご紹介します。」


……――――1951年 サンフランシスコ講和会議――――………

日本と世界の国々の間で平和条約を結ぶために行われた サンフランシスコ講和会議。領土や賠償に関して 日本に厳しい条件を提示する少なくありませんでした。 こうした中、セイロン(現在のスリランカ)の代表として出席した、ジャヤワルデネは印象的な演説をします。
ジャヤワルデネは戦争中に受けた、日本軍による空襲などの被害を指摘した上で、こう語りました。

「わが国は 日本に対して賠償を求めようとは思いません。なぜなら我々は ブッダの言葉を信じているからです。」

“憎しみは憎しみによっては止まず ただ愛によってのみ止む”

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佐々木:「今のこの演説の言葉は この真理のことばの5番目の詩なんですね。」

“この世では
 うらみがうらみによって
 鎮まるということは
 絶対にあり得ない
 うらみは、うらみを
 捨てることによって鎮まる
 これは永遠の真理である”
     真理のことば 五

堀尾:「一個人ではなくて、国の代表者が こういうことを世界に向かって堂々とアピールできるってのは 器が大きいですよねぇ」

佐々木:「ここで言います この うらみが鎮まる っていうのは、いわゆる日本で言うところの『全部 水に流してチャラにする』というような意味とは全然違うんですね。   物事の対立に際しては 勿論その責任の所在も明らかにしなければならないし、謝罪すべきことは謝罪する。反省することは反省する。 そういったすべての手続きがキチンと終わった上で、さらに自分のこの 心の勝手な思いとして相手を憎むということはやめましょう と。
    それをすると いつまで経ってもお互いのうらみというのが 消えることが…あるいはそれが増幅していって、また次の争いを生み出す。そういうことを言ってるわけなんですね。」

堀尾:「ま、しかし、個人、人間同士ならわからないことでも無いんですけども、やっぱり国同士でいくとね、今も全く戦争が止まない地域もたくさんあるじゃないですか。 やっぱり うらみがうらみを呼んで、次々と争いが起こっていく というケースがありますよね。」

佐々木:「ですからこの うらみというものは、勿論 煩悩の一つなんですけども、煩悩というものが もともと人間の心に最初からあるものなんですね。
    これは 消せない。
    なにもしなければ そのまま我々は煩悩のままに色々なトラブルを起こし、苦しみを生み出していくんですね。 ブッダという人は この煩悩を消すために 一生懸命努力をしたわけです。で、煩悩とはいったいどんなものなのか。煩悩の正体は何だ ということを じっと自分の心を見詰めることで 見定めていったわけです。
    その結果 表われてきたのが、この うらみも勿論 煩悩の一つなんです。執着もそうです。傲慢もそうです。    しかし、そのおおもとに実は 親分のような おおもとの煩悩があるということに気がつくわけなんですね。」

堀尾:「なんですかそれは」
佐々木:「それは無明(むみょう)というものです。無明。」


【無明とは?】

“たとえば
 物惜しみは恵む者の汚れ
 悪行は 過去・現在・未来の
 いかなる生まれにおいても
 汚れである

 その汚れよりも
 一層汚れた汚れの極み
 それが無明だ
 比丘(びく)たちよ
 その無明という
 汚れを捨て去って
 汚れのない者となれ”
     真理のことば 二四二-二四三


佐々木:「もうひたすら 無明を消さねばならん ことを主張してるわけですね。
    『物惜しみは恵む者の汚れ』←これはちょっと日本ではわかりにくいんですが、インドという国を想定するとよくわかります。インドでは 良い行いの代表が 人にものをあげるクセなんです。 ですから『恵む者』というのはインド人にとってはよいことをする 当たり前のこと。 ところがそれを、物惜しみの心でしない ということは 悪いことであると。この”汚れ”というのは心の煩悩です。 物惜しみも煩悩であると言ってるんです。で、そのほかにも色々な事柄がいっぱいあるけども、それは全部、心の煩悩だ。
    しかし、その色々な煩悩の中の極みですね。これ以上ない、最大の煩悩―――。」

瀧口:「汚れの極み って言ってますから。」
堀尾:「諸悪の根源 って」
佐々木:「それが無明だ」

堀尾:「無明って なんですか これ」

佐々木:「この“明(みょう)”という字。これは智慧という意味です。智慧とはなにかというと、これは前回も申し上げましたが、この世のありさまを正しく見ていく力です。 で、それが無い ということは、この世のありさまを正しく見ることができない 愚かさ ということです。だから無明は 愚かさの別名なんですね。」

堀尾:「無明ねぇ〜…先生もうちょっと分かりやすく説明していただけると……」

佐々木:「たとえばですね、一般的な友達の人間関係を考えた場合ですね、まぁ 友達付き合いをしてるのに なにか ちょっとした 些細なことでケンカをしてしまう。些細なことだから、本来ならば些細なことで仲直りができるハズです。  ところがその些細なことでケンカしたときに、私たちは勝手に色んなことを考えてしまう。『彼は本当は昔から自分のことが嫌いだったんじゃないだろうか』とか、あるいは、『私のことよりも あっちの人の方が好きになって、私との縁を切ろうとしてるんじゃないか』そのようなことをどんどん考えるわけです。
    そうなってくると、相手のそのちょっとした仕草や、意味も無い事柄までが まるで自分に対する敵対行為のように見えてくる。そして最終的には『あいつは私の敵だ!』というような憎しみにつながっていく。これは無明です。」

瀧口:「疑心暗鬼の状態になってしまうんですね」
佐々木:「そうですね。本来 全くなんでもないような状態であるのに、それを勝手に自分が捻じ曲げて考えて、そしてそこから心の色んな葛藤を生み出して、それが全部苦しみに繋がっていく。まさに自分自身がつくっている 人工的な不幸。無明というのはそういう不幸 苦しみの一番おおもとになるわけです。」


“無明とは自分勝手に解釈して 正しく見ることができないこと”


《ナレーション》
さらに真理の言葉には 無明を解決する手がかりについて書かれている詩があります。


“愚かな者が
 自分を愚かであると自覚するなら
 彼はそのことによって賢者となる

 愚かな者が
 自分を賢いと考えるなら
 そういう者こそが
 愚か者と言われる”
     真理のことば 六三


佐々木:「これは特に無明をテーマに語った言葉です。 つまり 私たちは生まれつきみな煩悩を持っています。悪い人だけが煩悩を持っているんじゃなくて、生き物として生まれた人間は全て煩悩を持ってるわけなんです。で、勿論 無明もあります。 従って 本質的に我々はものを考えるときに愚かな考え方をします。」

堀尾:「なるほど そう言えるわけですね。」
佐々木:「しかし私たちの中に無明があると気がついたときに 初めて人はその愚かさから抜け出すことができる。しかし自覚できない人は、自分の考えが正しいと思いますから、自分は賢者だと思う、ですから、『愚かな者が自分が賢いと考えるなら そういう者こそが 愚か者と言われる』そんなふうに言われますね。」



“「愚かさ」に気がつくことが大事”


《ナレーション》
人間は生まれつき煩悩を持っているとブッダは考えました。ではブッダ自身はどのようにして自分の煩悩を消し去っていったのでしょうか。


瀧口:「ブッダっていうと すごく特別な人物っていう感じがするんですけど。」
佐々木:「今の私たちから見ると ブッダというのは 完全・完璧な人間ですから。もう することなすこと全て正しい というふうに思いますが、やはりブッダは 歴史的な人間。我々と同じ人物です。そして悩み、苦しみ、間違って、その最後の結果として悟りを開いたということです。
    むしろ、ブッダがこうやって間違いを犯しながら 最終的に本当の道を獲得したという道筋は 私はとても素晴らしいと思います。」

堀尾:「我々にも通じる道筋でもあるわけですね。」


《ナレーション》
もともと釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタだったブッダブッダはどのようにして悟りをひらいたのでしょうか。それは修行の過程で ある間違いに気がついたことがキッカケでした。
インドの北部にある 前正覚山(ぜんしょうかくさん)。出家したあと、シッダールタはこの山で6年間 断食をはじめ さまざまな苦行を行ったといわれています。腹の皮は背中に接するほどにまでなり、ときには生死の境を彷徨うこともあったといいます。しかし煩悩は消えませんでした。どんなに過酷な苦行をしても、悟りを得ることはできない。まちがいに気付いたシッダールタは 苦行を放棄し山を下ります。 (セーナー村)衰弱していたシッダールタは村娘スジャータから乳粥を受け、健康を取り戻します。
その後 菩提樹の下で苦行から瞑想の修行に切り替え、悟りをひらき 目覚めた人・ブッダとなったのです。



瀧口:「苦行だと、悟りは得られないんですね。」
堀尾:「なんかねぇ、出家して 断食など自分の肉体を いじめていじめていじめぬいて、初めて何か真理がわかる みたいな そういうイメージあったじゃないですか。」
佐々木:「そうですね。」
堀尾:「苦行こそ心理を見抜くワザだっていうふうに思ってましたけど、違うんですか」

佐々木:「ブッダも最初はそう思ったわけですね。で、その、辛い思いを一生懸命耐えながら、じっとその我慢する。そのパワーが、自分の心の煩悩を消すという方向に向かうだろうと思って。そして何年も、さきほどの苦行像のような、ガリガリの姿で 苦行を続けたんですが、何も起こらなかったんですね。
    つまり体を痛めつければ忍耐力はつくのですが、煩悩は消えない。もし 煩悩を消そうと思うのならば、『煩悩を消さねばならない』という心の集中力を常に持続して 心の中に努力の方向を向けなければいけない。――ということに気がついたわけです。  伝説によりますと、このときブッダは苦行してるときに何人かの仲間と一緒に修行していたんだそうですが、ところがブッダはそれが意味のないことだと。無駄だと気がついて すぐに方向転換をして そして先ほどのように乳粥を食べて、言ってみれば 健康体になって、普通の体になってから修行をはじめた。それを見た残った仲間は、『あいつは堕落した。落伍した人間だ』といって、すごくバカにしたというんです。」

堀尾:「そう見えますもんね。」

佐々木:「そうです。しかしそう言われても正しい道はこれだと決めたら どんどん新しい方向へ向かっていく。これがブッダの進んだ道。非常に合理的なんです。」

【「うらみ」から離れるには?】

堀尾:「今日は『うらみ』からどう離れるか というのが一つのテーマなんですけども、日常的にやっぱりこう 小さなうらみから大きなうらみまで こうなんとなく 人に何か怨念を持ちながら生きるって どうしてもやめられない ってのありますよね。」
佐々木:「そうですね」
堀尾:「サラリーマンだったら 異動があって、何でオレがあそこのポストに行かなければいけない とか、色んなことを思って『アイツがオレを告げ口したんだ』とかね、『あの上司がオレを恨んでんじゃないか』とか、色んなこと思うじゃないですか。」

瀧口:「妄想がどんどん広がって――…」
堀尾:「そうそう。そういうカタマリになってしまうこと ありますよね。」

佐々木:「それは大変つらいことですよね。そのときに そのポストにつくことが、本当に私にとっての幸せなのかどうかという 一番おおもとのところから考えるべきですね。ほかの道は無いだろうか、つまりポストについてだんだん上に上がっていくことを最初から自分の幸せの道だと設定しているから それが苦しみになるのであって。」

堀尾:「出世街道から外れてしまった とか。」

佐々木:「外れるなんていうこと考えると またそれも苦しみになりますね。ですから それとはまた別の自分の生きがい、生きる道、そういうものを探していくということも大切なことですね。
    これはもう ブッダの教えは一歩一歩なんですね。何か特別なことで 一挙に消えることはありませんから 毎日少しずつです。 まさにいつもそれを念じて、“正念”ですね。念頭に置きながら、毎日毎日少しずつ 自分の心をトレーニングしていく ということが可能ですから。そういう中で ブッダが説いた、理想の境地へ少しずつ近づいていく。それがたとえ完成しなくても 毎日少しずつ よくなっていく という思いは私たちにとってはとても励みになりますね。
    そういう思いを持って暮らせば、現代の日常生活の中でも ブッダの教えは十分生かされていくと思いますよ。」

堀尾:「自分が中心だっていうことを 捨てる っていうことが すごい重要なわけですね」
佐々木:「それがなによりですね。」
瀧口:「なかなか難しいですけどね。」
佐々木:「難しいですよ それは。」

瀧口:「ちょっとクールダウンして、一歩引いて、自分を俯瞰で見詰めるっていう」
佐々木:「客観的にものを見る っていう これは訓練がとても大切だと思います。放っておいてできるものじゃないので。やはり毎日それをしようという 努力を続けていくことが大切ですね。」

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わかってはいても 難解でございます。

終わりがけに、堀尾さんが、
『怨念を持ちながら生きることが どうしてもやめられない』
って仰ってましたけど、ホントにねぇ。。。

パンを取った・取られたの話にしても、
『これは自分のもの』だと なった時点から、それを守るほうに思考が働いて、それを脅かす存在には『このやろう!』と思うワケで。

生きるために 人は 何かを得るために、躍起になって。
でも 何かを得れば、今度はそれを守るために必死になって生きて。
で、それが疎外されれば怨んだり妬んだり。

会社のポストの話については、
結局そのレースで勝たなければ、幸せになれない っていうのがもう刷り込みされてるから、っていうかねぇ。
社長になれなければ、莫大な資産を築き上げるコトができなければクソだ。みたいなね。
そうじゃないと生きていけない、幸せじゃない、 っていう。
…そんな考えが根底にあるから、邪魔されるような出来事があると恨む。

(まぁ、なんというか どっちも次回のテーマの“執着”に繋がるんじゃないかと思いますが…。)

もっと、あの、厳しめな例が・例え話が欲しかったなぁ、とは思いますけど。
例えば誰かに大切な人を殺される。虐待される。イジメに遭う。など。

…これは冒頭に佐々木先生が言われた、“避け難い苦しみ”では無いと思うので。
(…うん?どうだろう…。天災とかの突発的な要因でも無ければ、老化などのいずれ確実に訪れるものでも無い。 …とは思うけど、環境的には閉鎖されていて、解決しにくい問題だとは思うので。)

…あぁ、でもこれはサンフランシスコ講和会議のくだりで出た話に繋がるのか。

(だとしても もっとクローズアップして欲しかったなー…)

謝罪や反省、責任の所在が不明なものが多いから、ここが納得いかない っていうのがあるんですけどね。
こと戦争においては、それが正義であると信じて殺人が肯定されているように、
戦争でなくても、個人間の諍いにおいても、それが当人にとっての正しいことだと思っているからこそ、衝突が起きて、傷を負う人がいるワケで。
(番組最後に堀尾さんが『自分が中心であることを捨てることが重要』と仰ってましたけど。)
だから過ちを犯しても、自分が正しいと思ってる限りはこれは解決しない問題で。

パンの話や、会社のポストの話にしても、…まぁ、なんでもいいけど、
正義や常識といったものが暗黙の了解のように、なっていて、疑うことをしにくくてね。
(かといって、自分に都合のいい正義を利用して解釈したりもあるんだろうけどさ。)


無明が全ての…諸悪の根源 …的な話があったけど、これもだから会社のポスト…看板みたいなもの(人を名刺で判断するような)がもうインストールされてるような ね。

たとえば『あの人は ああいう人だ』みたいなものも、それまでの人生で築き上げた、近似値の人を 一つの色メガネで見るような。先生にイヤなこと受けた人は『先生なんて…!』と思ったり、ヤンキーにイヤなことされた人はヤンキー見るだけで脅えてしまったり。で、見た目DQNのヤツは全部そんなんだと思ってうっかりケンカ腰に絡んだら実はいい人とかがたまに居たりしてね。


友達付き合いとケンカの話にしても、
今の時代の弊害があるのか、それとも年を重ねることでなかなか心を開きにくくなっていくのか、本当に相手と向き合うことが無くなっていったりね。




あぁ、ほんと難しいな。
本心というか、『物事の“本当”』が、どんなものかも分からずに衝突したりする出来事がある中で、『ただ水に流せばいい』だけでは無いのなら、どうすれば明らかになるんでしょうね。

それを 他者への想像力を以って推して知るべきなのでしょうか。

イヤなことしてくるヤツも、ホントはさびしいヤツなんだ とか思って?



夜麻みゆき先生が『物事の真実(事実)は一つで、解釈が多数存在する』というような主旨の発言をどこかでされてたような。(違ってたらゴメンです。)

争う相手同士、加害者と被害者 が、解釈を共有できることが解決なのでしょうか。


よくわかりません…。
また次回。

ブログ内リンク : “ブッダ 真理のことば 『第1回 生きることは苦である』を見た。”