藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“駄文 13”

twitterにごちゃごちゃ書いたものを、こちらに転載してまとめ。



●ありのままを肯定する というコトと、個人の心の成長が大切 というダブルスタンダードの矛盾。

●価値観依存からの脱却とか、己を知ることの創造性とか面白すぎる。全てが無価値のニヒリズムに陥ったとしても、それに依存すること自体が“執着”している行為なので、それを壊す必要がある。仏教における輪廻転生も生まれ変わらないことが最終目的となるなら、今の生きる全ての流れを俯瞰で見るとか。

●ループ自体を肯定していく中で感じる、幸福や不幸自体に対しての違和感を、抱えたままにしておいた方が安心するのだろうか。というか肯定した時点でループの輪は変わるんじゃないのかな。気付かなかった“私”と、気付いた“私”に。それが“成長”というか“超人”への“進化”なら。



全てを肯定する、というコトは、成長というか、進化とかいうものも、自然のものとして在るのだろうか。

ルーティンな生活というのは、心にとって とても安心をもたらすもの というコトを名越先生は言ってらしたような気がした。

ところでこういうの、永劫回帰でも、輪廻転生でもどちらにしても、人の記憶というものはどう扱われるのだろう。
“気付いた”あとと、“気付く以前”の状態で異なると思うんだけど。
仮に、今、転生後の状態なり、永劫回帰のループの中にいたとしても、結局今までの生きることを 肯定できてなかった部分の(別に今も肯定できているワケでは無いですが)過去の私は肯定していなかったワケで。
ということは、過去、肯定することを忘れていた事実に気付いた時点で、過去を救っていることになるのか。

というか、どこまでが“自分の生(せい)”について、自覚的になれてるんだろう。


色んな出来事に対して、感情的な見識を持ってしまう時点で、既に刷り込みは始まっている。それ自体に対してすらも。


螺旋階段のような繰り返しというよりか、円が膨張しながら循環の輪が大きくなっているということか…。いや、刻まれている部分がコンスタントになっただけなのか。















………。ホントに駄文になったな…。思いついたものを箇条書きみたく。
ダラダラしてきたので今回はここまで。