藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“『あなたを忘れない。』”

別にこの機会だから書こうと思ってたエントリじゃなかったんだけどさ。

この前の私のツイッターでも書いたんだけど、


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まー、私の名前をちゃんと呼んでくれる人を大切にしますよ。私もその人の名前はちゃんと呼ぶし。あと、声がちゃんと脳内で響くのよね。

会ってない人って、顔を忘れる前に声を忘れるのよ。だから忘れるコトって“死”と同じだったりするし。そういった意味では、美空ひばりや、尾崎豊はいつまでも“生きている”からね。逆に何年、何ヶ月も会ってないような友人・知人は生きてても自分の中で死んでる。

有名人でもない自分の周りの人の声が脳内で鳴るってすごいコトだと思うの。そしてそれって“周りの誰かが『私』を呼ぶ声”として再生すると、あまり忘れないと思う。名前の話に絡めたのはそれね。忘れないでほしいから、じゃなくて純粋にその人に思いを向けること。

『名前を呼ぶこと』はあだ名でも良いけどね。“愛称”ならね。

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人は忘れる生き物で、それが悲しかったり、空しかったりするけど、生きていく上で忘れることも大切とは言う(こともある)からね。

鈍感力 っていうの?
ある意味では“執着”からの解放とも言うかもしれないけど。




なんとなく、ツイッターで名前についてのRTが回ってたのに乗ったから書いただけなんだけど、
人に会ってないと、会う機会がないと、会えないと、 その人のコトを忘れてしまう。

私の本名はよく人から間違われて。“読み”も“書き”も。
けど、自分の周りの人が、自分の名前を呼ぶ声を頭の中で鳴らすと、なんか素敵な気持ちになるような気がするのね。

友達とか、多いほうじゃないけどさ、『親しみを以って自分を読んでくれる声』って嬉しくて忘れないものよ。
だから私も、なるべく人の名前は覚えたいと思うしで。


会わないと、声を忘れて、顔を忘れていく。

だけど、芸能人・有名人とかは 直に会ってなくても…亡くなっても、テレビとかで在りし日の映像とかが流れるから 顔も声も忘れない。(だいたいは…)

(でもこれ、芸能人間でも、そのテレビのコンテンツ間の内容としてはアーカイブ残るのかもしれないけど、個人的に芸能人間同士がそれぞれのプライベートで話したコトや、その時の声は忘れていくのかな…。)


ずっと覚えているコトが辛いこともある。けど、忘れてはいけないこと、忘れたくないこともあると思うから。
写真や、声や、映像を残しやすい時代だとは思うけど、体験した中で刻んだ、自分の目に刻まれた映像をどうするかは自分だけのものだから。


なんていうの、すごく 単純に、コミュニケーションが大切だ云々なんて言うけど、それ以前に、大切な人とは ちゃんと顔見て、目を見て、言葉を交わさないと イヤだよね。感情的だけど。

忘れることは放っておいたらなるものだと思う。無意識的に。
けど、覚えていることは意識的。自分の意思。

きっとこれからも、都合の悪いイヤなコトを忘れて、都合のいいイヤなコトを覚えていて、都合のいい良いコトを忘れて、都合の悪い良いコトを覚えていて。記憶は自分の都合の良いように、保存と削除がされていく。なにもしなければ。
感情は気分で移ろい、気分が発した言葉が残ったりもするけれど、気分を生んだ感情は浮遊してどこかへ流れてしまう。


覚えている限り、人は死なない。経験も、思い出も。それは 意思で。
語り継ぐことや、物質的に残すことは出来るけど。
共有したい思いも、したくない自分だけの思い出も。
依存や執着で苦しくならないように、大切にできればいいと思う。