藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“対面同席五百生”

“対面同席五百生”
『現世で一瞬でも対面した者は、過去世で5百回以上の時を共に過ごしている。』
(主な意味ね。解釈が違うものも見ましたけど。)

エッセイとかも好きなのですが、Wikipedeiaで色んな人の人生・性格などの項目を ついしっかり読んでしまって、あっという間に時間が経っている。…というコトが結構あるのよ。


その人が、どんな家庭環境で、どんな境遇で ここまで生きておられるのか、それを知る というのはとても面白い。
書籍で…本人が自身の半生なりを書いたものであるとかね。また その人が読まれた書籍を参考文献として紹介してあったりで、それも 著者の方が自身の言葉に直して使ってるから伝わったり、
気になる人のエッセイだからこそ 言葉が簡単に人の中に入っていくものなのかもしれない と思ったり。

その中で、すごいという一面を見ることもあれば、今すごい人が昔は結構ひどかったなんて…。 …――みたいな方もみえるワケで。

『出会い』とかって、自分にとっての肯定的な相手しか解釈しないような感じが多いじゃないですか。
(恋人いなくて、「最近、いい出会い無いのよ〜」みたいな。)
腹の立つ相手とか、出会っても『出会い』の中に入れなかったり。
色んな人と すれちがってても、無関心であろうとしたり。無関心にしておきたかったり。興味の範疇に無いものは、こぼれ落ちていく。
(まぁ、全てをすくっていくことも出来ないんですけどね。物理的に。)

昔ひどかった人とかも、今では『関心を持つ相手』になっているでしょうが、『ひどかった時代』の時は、無関心や憎しみの対象であったりする。


この言葉は、輪廻転生というか、過去生でのさまざまな経験があって 今がある。みたいなものとも取れますが、
別にそう魂的な話じゃなくても、今生で、
誰かの、相手の 家庭なり環境なりがあって今がある って想像する。それだけでも、人の 出会う 意味がある。

言ってしまえば 見る人、出会う人を 容易に否定できないというか。

勿論、想像力を持って触れてみたとしても 腹の虫の収まらないような人もいるワケなんでね。


時間と経験は人を結びつける。けど 想像して人に触れることは時間や経験を超越することもあると思う。

そして出会う人(出来事)にも タイミングがあったりすると思う。
昔の友達とかと 自然と音信不通になっていったりとかね。諸行無常というか。
不変では あり続けられない。
当人に変わっているつもりは無くとも、変わっていってしまう。




いずれ 生きてれば、自然と出会わなくなる人もいる、…だろうけど、それらは段階的に、気持ちの(心の)準備を持って臨みたかった。学校や仕事が無くなることも、自然の過程を追って経験していきたかった。という。

依存はよくないって言うけれど、依存しているつもりは無くても、あったものが失われるというのは堪えるもので。
でも 依存せざるを得ない。一人の人間では出来ることなんて限られているから。出来ないことの方が多いくらいで。


だから結局、今 できることをやるしかないし、今 在ることに感謝する っていう。そこに帰結するんですけどね。


ところで、この記事を書きたくなったのは、テレビとか見てて、私より年下なのに、しっかりした考えを持っているなー…、…って思った人を見たから。
若さゆえの拙さはあるけれど、意識は高いなぁ って思わされたものがあったので。

メディアごしに見聞することも、出会いを共有していて面白いものだなと。