藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“記憶の墓場”

『まじめな時間』を読んだときもそうですよ。『マギ』でよく書かれてるのもそうでしたよ。

過去の記憶に囚われる。 …というか、
怨みに囚われる。 …というか、


怨念は引きずる。
『死ぬとき、苦しまなくて良かったよ』って書いてあったけど(たしか『まじめな時間』に。)、それって引きずるのよね。

自分が 今 している行動も、引きずってる。過去も。

後悔は積み重なる。
懺悔をただひたすら。
それらは変わらず。

今の“私”を肯定できない。だからいつまでも悔いたまま、なにか屈折したまま。
ただ 途方に暮れる。

制限された選択の未来。
狭められた選択肢。…選択肢を狭めることになってしまったのは、結果的に自分だという後悔。
誰彼の影響であったとしても、なにか自然発生的なものが原因であったとしても。
…それを自分の所為にするのがすごくイヤ。

誰かの所為にして怨んで、憎んで、殺すことができれば。
私の所為だと自覚して、怨んで、後悔して、自分を殺すことができれば。
…出来れば………晴れるのだろうか。



いつか
その身体は焼かれて、小さくなる。
それまで身体を大きくしてきたもの…その食べるとき手に持っていたもので、今度は小さくなった“私の一部”を拾い。渡して。いずれ小さなイレモノに収まる。

生きてきた想いは、焼けるのだろうか。浄化して キレイに昇るだろうか。
それとも、その小さなイレモノに、大きな重い、思いが。怨念が。残ってしまうだろうか。

…まぁ、宗教的に、亡き骸となったものをどうするかは色々ありましょうが。それはさておき。

血の通った肉体が稼動しなくなった状態を“死”と呼び、そこに宿った思いが消えるとき。
…それはどういうものなのだろう。

他人が生きてきた記憶や、込められた思いは、きっと分からない。
臨終のときを迎えるまで。なにを願い。祈り、想ってきたかは分からない。
…他人はそれを勝手な心情から汲み取ることしかできない。

仮に遺された言葉があったとしても。
理性的に対処されたお金や物の対処方法を伝えよう。
遺した友人たちに言葉を伝えよう。

残ったものは好きなように使ってくれて構わない。
残ったものは好きなように処分してくれて構わないよ。

いつも見守ってくれてありがとう。
お前も健康に気をつけてな。

…なんて。



…… そ ん な 気 の 利 い た 言 葉 を 最 期 に わ ざ わ ざ 選 ん で く れ る な 。


いや、それが心から願っての言葉なら。
純粋に生き抜いて、心の底から出た言葉ならいいんだ。



もっとたくさん。人の喜ぶ顔が見たいんだ。
穏やかな笑みを浮かべてほしいんだ。
そのための 若干の気を遣うことなら躊躇わないよ。

どうか怨まず。憎まず。
幸せを願い・祈って生きることを遠慮しないでおくれ。

楽しいことは一瞬だからすぐ消えてしまうね。
幸せなことは当たり前だと思っているからなかなか気付かないね。
怨むことはどうしても長続きさせてしまいたがる。


記憶はいつか消えゆく。
楽しい思い出や記憶は、遠いものとしてすぐにどっか行っちゃう。
逆に怨みやツラいことはいつまでも残り続ける。

墓前であなたを迎えるとき、元気で今の報告をしてくれるかい。
墓前で私に会いにきたときに、ただ涙を浮かべて謝り続けるのだろうか。

明朗な記憶を外に飛ばして。ただ外へ。

この記憶は遺さないでおくれ。

楽しい記憶は わたしがいつでも取りにいくから。