藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“ネガティブ日誌”

[リンク] : ネガティブすぎて逆に凄いダイソー社長の発言(NAVERまとめ)

このまとめに引用元としてあった、経済系のサイトの記事も読んできましたけど、それでも『生きる意志』があるんですよね。どんな境遇であっても。
その人生観・死生観みたいなものは仏教的で、無常を根底にした思想であるがゆえに、常に対策を講じていたり自身への変革を常に意識して目の前の最善を尽くそうとされてらっしゃる。

会社の社長だから、社員を抱えてるから、社員の人生を抱えてるから、どうにかしていかざるを得ない…というのはあるのでしょうけどね。
同じように、家族を持ってたら、子どものためとかで頑張っていくしかない。というのはあると思う。

しかしながら私にはそういうのは無い。
2chの何かの記事でのレスの一つに、『守るものが出来てしまうと、自殺出来ないからなー』なんていう書き込みを見た。(気がする。)
これはすごく分かる。

特に、自分がいなくなったら確実に路頭に迷う人が何人か出来てしまう っていう場合は確かに困る。
小さい子どもを抱えてたりするとね。
(で、抱えてて究極になると心中選んだりするんでしょうけど、さすがにそれは同情できない。小さい子どもとはいえ、別の人格を持った人間なのだから。さすがに心中は良くないとキッパリ言うよ。こういう場合 困窮したらとにかく“外”に発信してほしい としか言えませんが。)

けど、
周りの人、支えてくれる人、家族・友人・知人など、そういう人はいるけれど、そういう人は大切だけれど、別に私が死んだところでその人たちが生活していくのに困るような状況になるワケじゃない。
だったら自殺を選んでも、あなたの“腹”は痛まないでしょう?

ってワケだ。

まぁ、メンタル的にしんどくなることはあるかもしれないけれど、たかがそんなもんで。せいぜい反面教師にして強く生きてくれたらいいんですよ。
とさえ思う。
強い人なら、たとえ社会や環境がどのように腐っていこうが、蜘蛛の糸のような感じで他の人を蹴落としてでも生きていこうとする“生”への執着があると思うので・『私だけは生き残りたい』『一人にされたくない』っていうのがはたらくと思うよ。
……逆に、蜘蛛の糸から落ちてしまったとしても、『まぁ、周りには私と同じようにダメな人がいるから まぁいいや』って思うかもしれない。キツい言い方をすれば、底辺で擦り寄ってキズ舐めあって生きてればいいんですよ。泥舟が沈んでいくのを解っていながら乗っていて、淡々と沈んでいくようにね。

で、話は戻るけど、そういう周りの人がいないなら、スパッと自殺すればいいじゃん☆ とね。
悪化の一途を辿るのに、何も出来もしないでブザマに朽ちていくくらいならね。


ダイソーの社長の記事に関連した話になりますけど、
この方 結構災難にも遭っておられたり、借金を抱えた過去もあったりで。
所謂、成功者の話というのは失敗の連続で、エジソンの話がよく喩えられるように、その経過が・成果があったからこそ、輝かしい結果があるもので。…っていう。

で、私の話だけど、なかなかそう何度も挑戦っていう気になれないんですよね。
失敗が『命まで取られることは無い』とはいえ、失敗したことにおいて、人格や人間そのものを否定されたりすると踏み出せなくなるもので。
だからそれが完璧主義になって失敗を恐れたり、挑戦できないコトの言い訳になってしまったりする。
(“完璧主義”についてはまた後日。)
“過去になった失敗”をいつまでも引きずってしまうのは、立脚していた人間としての根幹に関わるところが大きく揺らいでしまうのがあって、だからこそ生きる理由も喪失してしまう。
(きっと共感して頂けるであろう人は多くみえると思いますが。)

そうして価値観が他人に依存したものになって、私自身の価値観や自信というものが皆無に等しくなる。
だから死を選択に入れることに躊躇は無くなる。

生きる理由なんてなんでもいいんだ。人生の暇つぶしとか言うんだし。
けどそれを自分の言葉で語れないと意味が無い。
たとえば来週のジャンプが読みたいからとかHUNTER×HUNTERが完結するまではとか、そんな理由でもいいんだけど、自分に“価値観”が無いから、そういうコトを自分で決めることもできない。生きる“理由”に相当しない。
(ちなみに私の過去の生きる理由としてそれがあったんですけどね。『私の好きな作家さんの連載が完結するまでは』っていう。でもその作品は連載休止のまま未完になってしまったんですけどね。。。)


『ネガティブ過ぎて〜』
……というコトであるけれど、結局生きる理由が自分自身で生成できてないと なんともならないんじゃなかろうか。
たとえどれだけ不安を抱えて、それを原動力に頑張る、って言っても、不安をプラスに転換していこうと思える理由が無いと。何もしたいと思えないと思う。ただただ虚無感が漂ってね。
と、ネガティブな私がここに書いておきますよ。と。
















……。蛇足。
けどね、もっとネガティブになると、このエントリみたいにネガティブな感情すらも吐き出すことを躊躇うものですよ。『暗い人は嫌われる』っていう防衛反応が働くから。
そういうマイナス思考だと、いつまでも『こぼれ落ちないように』『嫌われないように』と恐れ続け、笑顔の仮面をつけ続け、カウンセリングでも笑顔で答えて「大丈夫」と口にして、快活に仕事をこなして、フトしたときに自殺を図って周りの人が自殺の理由を全く思い当たらない なんてコトもあるわけです。
マイナス思考がマイナスな行為だからそれを一切オモテに出さない。という。

さて、当ブログでは最近このようなヘヴィなエントリを少しずつ上げてますけど、いい意味だか悪い意味だか、どーでもよくなっちゃったので、ちょっと重い・暗い記事を書いておりますよ。
ま、私がほんとうに死ぬなら理由をこうして置いといたほうがいいでしょ☆ ってのもありますけど。
あとはまぁ、鬱積を吐き出しておくだけですよ。
膿を出す。っていうか。

思考→言語→行動 と、
このような順でその人の持ってるものは表出され、『その人である』と認識されるものです。が、
過去のエントリでも書いたかもしれないし、他の人の発言にもあると思うんですけど、行動を変えることによって、思考を変えると言うじゃないですか。

だからこのネガティブなこと書いてるのも、なんか意味があるのかもしれませんよ。

膿を出してるのが、
何かを生み出している 肯定的な・生産的な行為かもしれませんので。

(良いこと言ったな。山田くーん、座布団1枚持ってきてー)



(ま、あとね、ダイソー社長の言葉にあった、健康で文化的な生活ができる権利が 国民一人ひとりに保障されてるのではなく、また 人生は努力して楽しくなるものだ というのなら、あまり初等教育の段階から人間だれしも平等である などと刷り込むのをやめたほうがいいんじゃないか、とさえ思いますから。上に書いた、蜘蛛の糸についてじゃないけどさ。逆にね、本気で誰かのためを想うのなら、ほんとうにどんな命も等しく重要なら徹底して教育や価値観の刷新をするべきですけどね。社会的弱者に対しての救済策とかね。それが無いならどんなポジティブな言動もただの詭弁だよ。)(←というネガティブな発言。)