爆笑問題のニッポンの教養。FILE049の再放送。
政治としての『責任』と『応答』すること。
また、田中氏の言った、
「表現できる場所が増えたということは、傷つく場所も増えたということ」
太田氏の殺害予告の言葉の伝わり方。
表現が、言葉が、顔が見えないからか、一方通行になってしまってて、どう伝わっているかわからない。
そもそも発信者側が意図したことが、伝えたい思いが届いてるかわからない。
それで投げっ放しの表現になってしまい、飛び交う言葉が殺伐とする。
最近、『フルーツバスケット(高屋奈月 著)』を読み返してて、こどもにもキツい言葉は伝わっている、ってコトとか。(岩岡ヒサエ 著『ゆめの底 』にも「おとなたちの残酷なおしゃべり」とか、似た意図だと思わしき表現があったと思う。)
必ず反応があるだろう、応えてくれるだろうという前提を以て表現をしていると、レスポンスがないと不安になる。
不安は攻撃性を生む側面がある。
だから攻撃しっぱなしの表現になる。
じゃあ結論はというと「想像力を持って接しましょう」、「他人を許容する、寛容する力(“力”って変か…?)を持ちましょう」とか、そうなってしまうのかな。
それでも良いけど、もうちょっと受け皿というか、答えが複数あっても良いと思うけど。