言葉って「世界から何かをその形に切り取る」ってことだから、そりゃあどこまで行っても掬い取れない部分は出てくるけど、それでも何とか手を替え品を替え語彙とそのアウトプットを増やす努力なしでは、いつまでも世界の切り取り方が雑でワンパターンのままなんだよな……
— まやのみつる (@mayanomi) 2021年2月7日
言葉に出来ない / しにくいものを、感じたまま心に留めておく ということと、取り敢えず言葉として何か表現してみる という両軸で。
— 藤麻無有彌 (@tohma6u3) 2021年2月8日
時間が経てば、心に留め置いたものも表現が見つかるかもしれないし。
言葉は、そのとおりじゃない。
— 生田美和 (@shodamiwa) 2021年2月8日
言葉には、ならないものもある。
言葉にすれば、消えてしまうものも。
それでも書き出し、読めるようにして。
違っても、ずれてても、
手がかりを残して。
誰かと歩むかもしれない道を、
照らしていきたい。
なにか創作物に触れたときや、自然の美しさを感じたときに、なにかしらでその感じた思いを言葉にする。
勿論、言葉にしにくいものもある。
それを言葉にしておいてみる。
別にわざとらしい共感を近くの人に求めるでもない。
自分の感情に入り浸りたいときはある。
とりあえず雑に「すごい~(語彙力)」とか言っておいてみる場合もある。
それはそれとして、感じた感情をそのまま自分の中に留めおいてみて、また後日、そのときを振り返り、思いを馳せたときに、違う感慨に触れるかもしれない。
そのとき出てきた言葉は、最初の印象とは違うかもしれない。
それは、何年か前の記憶でも。
時を経て、新たな創作物に触れて、自分が感じた感情を、どのような表現で、言葉で表しているかを気付かされるときもくる。
『言葉』として鋳型に嵌めたときにスッキリするときもある。
…勿論、そうはならないときもあるかもしれない。
誰かの言葉も、それは本心の表現なのか、隠した上での表現なのかは分からない。
その言葉は、どこまで『本気』で、相手に向けて放つものなのか。
『本音』をどこに置いて、他者へ言葉を手向けるのか。
今、書いてる私のこの言葉も『今』のもの。
過去のブログの文体とはまた違うかもしれないし、何年か経てば異なる表現をしてるかもしれない。
全く同じかもしれない。
感じたものを、どう切り取るか、どう切り出すか、概略するか、比喩するか、ストレートに伝えるか。
気分によるところもあるのでしょうが。
そのときそのときの『さま』を、ただ紡ぐのみ。