藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“役に立つか役に立たないか と、優生学思想と、あと 私。”

 

このブログ内での関連→これ

 

 

(とても文が長いです。お覚悟を。)

 

 

『役に立たない自分』というものに対しての恐れ が根本にあって。

……勝手に主語を拡大すると、誰しもあるかもしれないんだけど。

 

2016年にあった相模原障害者施設殺傷事件が個人的に衝撃で、

 

他人が勝手にその人を不幸だと決めつけること、他人が勝手にその人を役立たずだと決めつけること、他人が勝手にその人に生きる価値が無いものだと決めつけること。

かわいそうだ。哀れだ。大変だ そう決めつけること。

 

実生活で起きる、単純な意思の齟齬や伝達不足や、指示が遂行出来てないこと… 他人が自分の思った通りに動かなかったこと。その憤りや怒りやらを、最たる方向に行使されてしまったのが、相模原の事件だとずーっと思っていて。

 

 

 

『迷惑かけること』の一番は『不健康になること』だと思ってて。

 

そもそも自分自身が、そうなったときに自分の思うようにならない体に苛立ちを覚える。

尚且つ、人の手を借りることがどうしても必要になる。

 

(過去エントリで樹木希林さんの言葉を使って、人の手を煩わせることの恐れも書いたけど)

 

他人には必ず迷惑をかけてしまう。

 

私が以前から、仕事に穴を空けること自体が苦手だったこともあって、他人に迷惑をかけることとか、役立たずな存在になってしまうことに対する恐れがとても強い。

というか、『不健康になること』が『役立たずになること』だと思ってしまってるんだけど。

 

 

その考えのもとが、相模原のそれに相当するように、『不健康な存在』を『不幸』だと決められて排除されてしまったこととか、また、事件にも触れられてたけど、ナチスが、アウシュビッツ強制収容所で選別してたように。

 

収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、エホバの証人、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)[6]により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。(wikiより引用)

 

誰かが勝手に定義した『普通』に属さない者、及びその考えに加担する者は排除される。

 

結局それが今の時代でもまかり通ってるような気がして、私は『普通』からこぼれ落ちるのが恐かった。

それは価値観・考え方だけに限らず、健康の状態に至るまで。

 

日本でもほんの数年前まで優生保護法とかあったしさ。

デザイナーズベイビーとか。

 

そんな『都合のいい人』が欲しいのならロボトミー手術でもしろや とか憤ったり。

 

 

 

何故恐れたかというと、学校の場でも仕事であっても、『使えない存在』に対しての批判を自分が受けたり 見聞きしてきたからで。

だから決してそうはならないように。自分が使い捨てられないように。

そこが起因なのかもしれないけど、その恐れが大きくなっていった。

 

ちょっと異なる特性を持ってたら先ずそこの理解からハードルが高かったり、福祉だって拡充してなかったりする。

 

また、そういう人への理解を欲する側面で、私が実際にそうなったらイヤだなという思いもあって、結局私が、『役に立たない』『不健康になること』を忌避しているんじゃあないか という、私自身が差別をしてしまってるのでは とさえ考えてしまったりもする。

 

 

 

 

『役に立たない』ことで責められる恐れから、『不健康』を免罪符に、『不健康』を言い訳にして…、

 

『不健康』になれば『役に立たない』ことで責められることもないだろう と、ひどいこと考えたりも。

 

 

(生きて苦しい状態があるくらいなら、死の方がマシ とさえ書いたのはここに関連する。選別するならいっそのことザックリと排除してくれよ と。)

 

 

私にとっての都合の悪い存在を悪く言うこと・悪く扱うことへの戸惑いとか、私にとっての邪魔なものへの嫌悪感とか。いちいち主観と客観を入れ替えてしまって勝手に苦しくなってしまったり。

 

で、また一方で、自分のニッチな価値観も理解してるからこそ、なんで認めてくれないヤツが多いんや! と中二病ばりに理解のない社会への憤りめいたものを勝手に抱いたり。

 

なんでうまく生きれない人への補償が社会的に行き届いて無いんだ とか。

多少の失敗でも何度でも人生やり直していいじゃねーか とか。

 

身体的に芳しくない状態になっても、精神的に芳しくない状態になったとしても、ただ生きることを補償して保障してくれよ!!

 

という、思いが、ね。あるんですよ。

 

過去エントリで五体不満足になっても、五感を失ったとしても って書いてるけど、極論はこれ。

 

ただ生きてる状態を肯定したい。

 

私もねぇ、なかなか偏屈で鬱陶しい考えしてるな って思うんだけどさ。

まだまだ弱くてね。

 

 

ただ生きてる私を保障したいのは、私。

 

私が私を保障したい。

 

偉そうに他人を救うフリして助けられたいのは私自身だったりもするものでさ。

 

第一今は、健康的には多少だるいくらいでほぼほぼ元気にやれてるのに… まぁ、自律神経やられてるので、諸々の不定愁訴はあるんだけど。とはいえ何を勝手に不安になってるんだ って感じなんだけど、それでもこれは私の究極の恐れなのです。

 

先日もバリバラで重度障害者についての回とかやってたけど、意思を伝えるのが難儀であっても・(出来ないのではなく)表出しにくくても、必ず意思があることを汲み取ってくれたこと。それを番組でやっていて、

 

私が一番イヤなのは、意思表示とか自己表現が出来なくなることなので、

 

私が他人の意思を汲み取れるかは分からないけど、私の意思は必ず誰かに汲み取ってもらえるという希望は確実にあることは番組を見て示されてるので、

自分の不安を社会に混ぜて勝手に不安になったりもするけど、理解してくれなかったり、傷ついたり傷つけたりもあるだろうけど、誰かに思いを託せるのでは という信頼は 持ったまま、ただ身を任せて委ねていけたらいいなと。

 

(まとまりのない文章だから2,500文字とかオーバーしちゃったよ。)