藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“はてな今週のお題「お弁当」”

今週のお題「お弁当」

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よく、お母さんが作ってくれたやつは、ごはんが2層になってて、間にふりかけが挟まれてた感じのやつですかね。
2段の弁当箱のうちの、1段がまるっとごはんが入っているんだけど、その1段ぶんの半分をまず敷き詰めてごはん入れて、ふりかけかけた後に、また同じくごはんを入れてふりかけをかける みたいな。そういうのになってたのを覚えてます。

もう1段にはおかずが諸々ですけど、所謂冷凍食品の茶色いやつで私はじゅうぶん満足なんですよ。から揚げとかミニハンバーグとか、肉巻きポテトとかそういうので満足する人なので。

そんな感じですね。


弁当、大変ですよね。あれだけの容器に色んなもの入れないと っていう。
仮に冷凍だったとしてもそれを用意するのも大変ですよ。手間ですよ。
冷凍食品でじゅうぶんですよ。


私が仕事に行き始めて、自分で昼を用意するワケですけど、そんなもんカップ麺ばっかですよ。
怠惰ですからそうなりますよ。


弁当大変ですよ。すごいですよ。

“Unconscious stupidity”

 

 

 

 

 

 

 








なんだかよくわからなくなってきました。

1人でお外でゴハン食べられない人の所為でどうちてあれもこれもダメだということになってちまったんでちょうか。


大型連休期間中でちゅけど、守らない人は守らないでちゅ。

何をしたら感染リスクがあるのか、わかってない人が多いみたいでちゅ。

1年経っても何も変わってないでちゅ。





ワクチンはどこに行ったんでしょうかねぇ…。

 

 

 

 



 

政治家の人だって会食したいワケでしょうし。

都合のいいようにルールを作って自己解釈したりねぇ。

どうせオリンピックやるんでしょ。知らんけど。



はぁ。

“はてな今週のお題「間取り」 ”

今週のお題「間取り」

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人ん家を見るの好きなんですよ。

間取りというか、家具のレイアウトを見るのも。リビングと廊下がどう繋がって、階段がどういう位置にあるのか など。


基本的に本棚とか、どんな本を並べているんだろう ってのを見るのは好きだし、その本棚がある環境を見るのも好きだし。
先日もテレビである芸人さんの部屋が密着で映ってるのを見まして、本棚の並びっぷりとか漫画の並びとか、パソ周りにフィギュアが置いてある環境とか いいなー って思ったり、

あと ロフト付き とかね。
ちょっと憧れますね。小部屋感があって。

なんの番組だったかでお宅探訪みたいなやつで、小さな土地…敷地面積で、通常の階層で家を作ってるのではなく、階段の踊り場みたいなところに部屋を設けていたりとかね。

屋根のカタチとかも家の外見で見て気になるとこもあるし。
屋根裏部屋とか2階以上の部分をどうしているんだろう とか、

玄関が1階以外に2階と繋げていたり、勝手口というか 家の正面とは違うところに入口が2階以上のところにも用意してあったり、

『はなれ』みたいのを作ってる家とか、憧れますよね。
それが、母屋とは別にプレハブを置いただけだったとしても、面白いとも思いますし。

部屋の構成がどうなってるか とか、結構見るの好きです。


ところで、お題のところに書いてある、『中2階』ってワードを見て、
思わず、オウムのA原が逮捕されたときに見つかった、フロアの間のところみたいな隠し部屋みたいのを思い出してしまったんですけど、そんなこと連想する人いますかね。

“凡庸な人。”

「私はおかしい。狂っている。」という常識的で凡庸な人。

「私は常識的で 間違ってない。」という おかしい人。

どっちもありますよね。

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(『うっせぇわ』からのキャプ)

 

前者はどちらかというと中二病感ありますけどね。

後者は普通にありふれてますし。

なのでどちらも『普通』というか。よくあることですね。



個人的には、「私は常識的で間違ってない」「何か間違ってる??」って正義の皮を被ってる人がこわいですけど、それも自分がその正義の沼にいつハマってるか分かりませんからね。
誰だって自分が正しい選択をしているんですもの。
「郷に入っては郷に従え」とは言いますけど、それが古い慣習に囚われていて、魔女狩りしてたり、その小さな『村』の中での正しさに依存していることもありますし。

自分の正しさを疑うとアイデンティティも崩れますし。


かといって、「私はおかしい」とか自分でわざわざ狂ってることを自明していったり、一般常識みたいなものに対していちいち反発したり逆のこと言ったりするのも『痛い』というか、わざわざ逆のことを、異端とされてることをやって目立ちたい みたいな心情もありますし。


両方ありますよ。



そういうのひっくるめて、凡庸 というか、まぁ、普通 ですよね。


「普通こうでしょ!?」
「普通だったらそうでしょ!?」

…って、『普通』ってことを圧強めに押し付けたりする人もいますけど、どこまでその『普通』が不確定で不安定なものの上に乗っかっていて、
使い勝手が難しいということを分かっている上で『普通』を使っているのか、そこに自覚はあるのか分かりませんけど。


ま、その「果たして分かってるの?」って問うてる私が『分かってる人』ということでもなく、私も同じく無自覚な部分がある時点で『凡庸』な人 であるとは思いますよ。

“「責任者を出せ」”

責任を取りたくない っていうのと、
責められたくない っていうのは別ですよね。

責任の所在を明らかにする というのと、
責任者を糾弾する というのは別ですよね。

責任を取ることは謝罪することでも罰を受けることでも無いよね。

や、
誰もが思ってることでしょうけど、「責任を取って辞任」ってそれ責任とってないやん。


事後の対応をとることであったり、補償の対応であったり、同じ失敗をしない為の策を講じることであって、サンドバッグになることでもないよね。
サンドバッグにしていいものでもないけどね。
被害に遭った立場の人がいたら、サンドバッグにしたい気持ちはあるでしょうけどね。


会社的なものであったら、部下のミスを引き取ることってカッコいいと思うんですけどね。そのミスも、どういったものかにもよるけど。
故意によるものなら当事者の処分みたいなものは致し方ないでしょうけど。

あり得る失敗なら、あらゆるトラブルシューティングが対応出来た方がカッコいいと思うんですけどね。



さておき、

一番偉い人に頭を下げさせたい人 っていますよね。
「責任者を出せ!」って。
なんか偉い人に頭を下げてもらうと嬉しいんでしょうね。
マウント取れるからですかね。優位に立った気になれて気分がいいからですかね。

なんで偉いと思われたいんでしょうかね。
偉くないから偉いと思われたいんですかね。
偉い人に頭を下げてもらうことでプライドが満たせるからですかね。
上の立場の人に頭を下げてもらえたら、ゴミクズミジンコキャリア底辺の私も いい気になれるかもしれませんね。
というか、いい気分になりますね。私も醜いものです。


頭を下げる上の人ってすごいですよね。
そうした方が結果的に自分の為になるもんね。
かといって、無闇矢鱈にへこへこするでもないけどね、毅然とすべきところは毅然とした態度で。

なんでも謝ればいいワケでもなく、責任の所在を明らかにすることが大事でしょうから。問題点の改善が大事でしょうから。
謝るべきところは謝って、問題ないところまで謝る必要は無いし。
過剰にへりくだる必要もないし。

悪いと思ってる人が全部悪いとも限りませんし。



って感じで、責任者カッコいいな って思ったりもしますけど、
植木等ばりに無責任になりたいとも思いますし、NHKの『SONGS』での大泉洋さんの肩書きの “責任者” ばりにテキトーな存在にも憧れるので、
無責任な責任者になりたいな と思います。(

“色々別にどうでもいい。”

tohma666.hatenablog.com

 

虚無感みたいなのはずっとあるので、今更でございまして。
一応、言うこと言ってみたり やる事やってみたりはしておりますが、如何にもならないことも多く体験してきておりますので。


どうでもいいですよ。
どうでもいい。
実にどうでもいい。


やることはキッチリやりますよ。
それなりにちゃんとやりますよ。

無関心な人や、声だけデカい人もいますけどね。

いつでも捨てられますから。

私もあなたも棄てられる。
擦り切れて摩耗してゴミになる。

主観的で適当な理由を付けて処分される。

どうでもいい 実にどうでもいい。
玩具は動いているうちが華よ、また新しい玩具を見つけて、乱暴に扱って、壊れたら関心を持たれなくなって放置。
人間という玩具。

玩具を使って楽しく遊んでいるように見えるから、その玩具が欲しかったけど、自分がうまくその玩具を使えなかったらそれはもう要らない。
関心もない。
新しく楽しめる玩具がほしい。

そうやってゴミの山だ。


擦り切れて壊れた人の山。


いつまでも、捨てる側だと思っていたら、自分が捨てられる側になっていたり。
いつまでも続くとも思えぬものにしがみつき、その場所で横暴を使う。



あらゆるものはどうでもいい。


どこまで関心が及ぶかも窺い知れず。

刹那を重ねて逝く。


どうでもいい。

いつまでも小さな箱の中で、おもちゃをひっくり返していればいい。

“『会話』”

 

 

 

 

最近 私、ある人から、
「自分の言いたいことばかり言うな」
と、言われたんですけど、その言った人はご自身の立場を傘に、言いたいことを仰り、一応の立場から「言いたいことがあればこの機会に」というくだりを経て、お伝えしたいことを申し上げたのですが、前述のようなことを仰られまして。


なんじゃそりゃ。
どないや。


また、色々あった当方と申しましては、他者から求められる共感にも飽き飽きしておりますので、圧強めで「そう思わん!?」みたいな、所謂 怒気を孕んだ愚痴の共感を求められた際は、「あぁそぅ」くらいの感じで流したいもので、
事実が分からない / 私が知り得ないことに対して承服したくない というか。



なので、どうしても私は普段 黙ってるときが多いのです。
このブログでテキストで雄弁になっているのは言いっぱなしに出来るからです。
意見も求めてないし、そもそも読まれてないからどうでもいいし。


言いたいことが言えるのは、それを只々聞いてくれる役割の人がいるお陰です。
聞いてくれてた人が、いちいち反論してたら その人にとって話にならない、話が出来ない。
会話でもない、会議でもない、言いたいこと言える立場にある人が言いたいことをただ言うだけの機会。
テレビで見る、一部の『会見』と呼ばれるものもそうですかね。

先日書いた『自分らしさを発散してるからストレスがない』に通じるところですが。




ま、
一方的に自分の話ばかりして、話を聞いて肯定してくれるママが欲しいんですよ。
これも先日の記事に繋がるけど。



お互いを尊重して会話が成立する関係 って稀じゃないですかね。


自分ばっか言いたいこと喋ってねぇかな って思うところから ですけど。
立場の異なる人どうしが、話したいことを差し出し合うこと って双方に最低限の敬意がないと難しいですよね。

あとは自分がガキだと分かってて、ママに話を聞いて欲しい って自覚があれば またそれは別なのでしょうが。